2014年07月01日

哲学とは何か…。

私には、かつて、マンツーマンで仕事をする人たちがいて、その人と一緒に長い時間を過ごす場合、彼らが詳しい話題で楽しんでいた。たとえば、それは浦和レッズのサッカーであり、音楽であり、ジャズピアノであり、地元の話題であり、時に、芸能界の裏話…。

最近、その中の一人の友人といまでも交流が続いていることを、他人に説明する場合、哲学としか言いようがなく…。

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哲学と言ってしまうと、ちょっぴりコソバユイ。何故なら、それは、ギリシア哲学やフランス現代思想ばかりでなく、トンでも系といわれるスピリチュアルな話題や、陰謀論も含んでいるから。しかし、哲学と言い切ってしまうと、もうひとつ別の意味が見えてきたように思えた。



よく「日本には哲学者がおらず、西洋哲学の研究者しかいない」と、不満というか、グチがあったと思う。

いままでの私は、その理由は「日本人は集団的であり、思索する自己を確立した人が存在しない」。または「他者の論理によってしか自己を確立する意気地なししかいない」と考えていた。

しかし、最近では、日本の大学は「明治維新、英国が、西洋思想を日本人に洗脳するための施設として、帝国大学を設計したことに始まる」ことにつきると思っている。

つまり、「日本人が、日本人の哲学を語る」なら、それは、大学の目的に反する。したがって、過去において、日本人にも哲学者は存在したのだろうが、彼らがアカデミーから是認されたことはない。唯一の例外は、ドイツ実存主義の周辺で存在を許された西田幾多郎。禅の鈴木大拙ぐらいか…。



先日、ある新聞に哲学の教師が「哲学のすすめ」のコラムを載せていて、デカルト、レヴィ・ストロース、ヘーゲルを紹介していた。
それぞれ、「疑う」「そぎ落とす」「磨き上げる」と小見出しがつけられている。

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思想に限らず、歴史において、さまざまな流派は、進化・変容していくのだが、多くの場合、その動力は「発展」ではない。否定である。

つまり、カレーライス屋が、「トンカツ好き人間を取り込むため」に、カツカレーを始めるというようなことが、起きるのではない。
近所のたばこ屋が、このままでは先細りになり、商売はダメになる。と考え、コンピニになる。つまり、現状を否定するところから、新しい流派が生まれるのである。

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つまり、「我思う、ゆえに我在り」などというが、では、「我が思わないなら、我はないのか」もしく、「自分が死んでしまったら、この世界は存在しなくなるのか…」。
どう考えてみても、自分が死んだとしても、子供たちのために、この世界はありつづける。
ならば、思索(認識)を中心においた「存在論」は間違っているということになり、哲学はすすんでいったに違いない。

レヴィ・ストロースは、文化人類学の祖であり、サルトルと議論をしたことが有名。レヴィは「どんな文化においても、つねに個は揺ぎ無い」とするサルトルに議論で負ける。
そもそも、文化人類学は、「進化論的な西欧のアカデミズム」に対する批判から生まれたものである。しかし、そのことを学生たちは「教えられない」。何故なら、レヴィ・ストロースの論理をつきつめていくと、「アカデミズムが、西欧思想を洗脳するためのツールであり、真実性は疑わしいこと」が明らかになるから…。
その後、文化人類学は、さらに細分化し、機能主義人類学となっていく。勿論、機能主義は「伝統的な西欧アカデミズム」を否定する。

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機能主義同様、記号論、構造論、意味論、表象論なども、「学問の中心は、近代的な自我(思索する個)」、「言葉が思想であり、文化である」を否定する。

つまりは、「思索の優越性」を否定する。従来の「西欧アカデミズム」を否定する学問である。


ここが分かっていないと、本質を掴むことはできぬ。

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つまりは、小学校〜高校までの勉強は、「近代的な自我」「ロゴスの優越」を徹底的に刷り込まれてきた。

しかし、大学以降は、「近代的自我」を越えた客観性、「ロゴス」を超えた意味・構造を学ぶことが主眼となる。

最近、文科系の大学の学部で、英語教育とならんで、統計学を学ぶことが重要となってきているのは、そうした背景があるのだろう。


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ヘーゲルの弁証法も同様で、詐術だということに、多くの学生は気がつかないだろう。

この新聞でも、哲学教師は、「(テーゼ)たとえば自動車。日々の生活で便利で手放せない。(アンチテーゼ)しかし、排気ガスで環境に良くない。(ジンテーゼ)ふたつの側面を踏まえて、電気自動車を普及させよう」と、ヘーゲルの弁証法を紹介する。
しかし、「弁証法」とは、テーゼの重要度を偽装する(カサアゲ)レトリック(修辞法)に過ぎない。そもそも、「自動車に乗らなければいい」。「無人島で生活すればいい」のである。

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シナリオも弁証法の一つである。

「軍師官兵衛」において、黒田官兵衛を主人公にする「必然性」は一切ない。それは制作側の事情である。

同時代の歴史上の人物を総合的に判断すれば、秀吉の重要度が一番であり、ならば、秀吉を主人公に物語をつくるのが当然である。しかし、秀吉のドラマは、過去に何度もつくっているのでできない。そんな大人の事情を隠蔽するために、同時代、官兵衛の方が、歴史的に重要だったかのようなドラマが制作されるのである。




疑ってみる…。

たとえば、アフリカで、こどもがチョコレート農場で働くことが、世界のジャーナリズムで問題になっている。しかし、これは情報誘導である。

問題は、アフリカの人たちが、自分たちの主食ではなく、経済作物をつくることを強いられていること(この産業構造では、地産地消も、自給自足はありえない)により、経済生活に巻き込まれ、貧困になっていることである。

日本酒は、日本人の主食・米から出来る副産物である。一方、フランスでは、葡萄からワインを作っている。とすれば、私達は、フランスの葡萄畑を見た時、私たちは「邪悪な意志」を感じ取らなければならない。



疑うことの危うさを、この哲学教師はご存知ない。

さらにいえば、疑うことの反対、信じること。つまりは、「信じて、騙されること」が、人間の良性だと歌う、武田鉄也氏の悪性に、教師と言う存在の悪性を痛感すべきである。

平成の時代、知性を誇る輩は、すべからく、浅薄な人である。



あるべきは、知り、疑い、発見し、その出口のなさに、自らを悟り、諦める。

その上で、自らの生き方を決定する。ことかもしれない。。
posted by sponta at 19:27| 東京 ☁| Comment(0) | リアルウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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