2014年05月06日

やはり、明確に松岡正剛氏批判をしておかなければならないと思う。

アカデミズムの中には、松岡氏を尊敬する人たちが多い。




しかし、2014年のITの時代を生きる私達にとって、「読解を拒絶するような難解なテキスト」は無価値である。


バーナーズリーは「理解する」とは、「相手に最適な形で、アウトプットすること」と述べている。


とすれば、「読解(帰納批評) を拒 絶する」テキストを紡ぐ松岡氏は、「情報化社会にノイズを発生している」に過ぎず、オールドタイプのアカデミストには重要であっても、新世代(デジタ ルネイティブな若者たち)には不必要。




そもそも「理解」などという概念が虚構なのだ。

プログラムとは、y=f(x)に例えられる。

それこそが、人工知能の実際であって、どんな関数fを与えるかは、人間次第なのである。


つまり、シンギュラリティ(人工知能が人間を越える時代)など訪れない。

もし、あるとすれば、関数Aと関数Bの戦いだろう。




何故、松岡氏が、そのような言論を紡いでいるかといえば、作家・編集者・出版者・評論家というエスタブリッシュの権益をサバイバルしたいから…。

彼が編集に固執するのは、自らのテキスト(知の)優位性を守りたいから。


そして、卑怯にも、彼はシニフィアン(テキスト・エクリチュール)の側にいて、シニフィエ(意味)の側に渡ろうとしない。


*


つまり、彼は、シニフィエ(意味論)において、シニフィアン(テキスト・エクリチュール)は、相対化され、編集者・作家は「無力化」することに気がついている。


…松岡氏は馬鹿じゃない。




黒澤明は、自作において、「青く塗ったものを、赤いといわれても困る」というようなことを言っていたが、観客が、「どんな色に感じようと、それは自由」なのである。


つまり、朝日新聞というラベリングを見て、アカヒ新聞(赤=共産党系・反日思想)と、読者が感じることは自由である。


同様に、読売新聞をして、クズ売り新聞や、国売り新聞と感じても構わないし、フジテレビの名前を聞いて、蛆テレビとイメージする自由が一般人にはあるのだ。




実際問題、


情報流通は、コンテンツ(情報そのもの)のデリバリーではなく、トリガー(引き金)のデリバリーなのだが、学問も含めて、誰もそれを指摘しないのは、トリガーとすれば、発信者の既得権益が毀損するからである。


現在人の誰もが認識しているように、「洗脳」は悪である。

しかし、本来、「洗脳」と「教育」は同じものなのだ。




東京大学の表象学科は、「読解は、作品研究ではない」と指摘し、大学教授にありがちな、人生論的な読解はおぞましい。と、嫌悪の情を隠さない。


私には、その最大の標的が、松岡正剛氏であると、確信している。


編集工学(Editorial Engineering)[編集]

松岡正剛が提唱する編集工学は、人間の思考や社会のコミュニケーション・システムや創造性にかかわる総合的な方法論である。その創始は日本がまさに情報化時代に突入していく1980年代に遡る。当時の情報科学がもっぱら情報の記号的・データ的処理を前提としていることに対し、松岡はいちはやく人間の意識や感情や行為のともなう「意味情報」に着目し、それらが生成され交換される“生きた情報システム”を扱っていくための方法論の構築に向かった。 松岡によるとその理論的背景には、当時三つの思想・研究動向、すなわちフランス思想界やアメリカ文学界で流行した「ディコンストラクション」(脱構築)、広範な科学の分野で提示されつつあった「自己組織化理論」、マーヴィン・ミンスキーなどによる認知科学と人工知能の研究動向があったという。 このように編集工学は、「知」が寸断されたまま大量に流通されていく情報洪水時代到来の予見と、現代思想の提示する「知のコンセプト」や「知のモデル」の統合化の必要性という、時代の要請にこたえるかたちで、生み出されたものであるといえる。 編集工学の扱う領域、すなわち“編集素材”は非常に広範なものである。松岡の整理によると、まずその領域には「身体に起因するもの」「好みから発するもの」「直観あるいは啓示によるもの」「学習性の堆積によるもの」「表現構成が喚起するもの」「ゲーム適用によるもの」「図像にひそむもの」「物語が伝えるもの」「歴史に内属するもの」「合理的再現性によるもの」「日常性によるもの」がある。このそれぞれから発せられる情報には、数値情報・事物情報・現象情報・解釈情報・理論情報・心理情報・図像情報・様式情報・構造情報・物質情報・時間情報・音響情報・物語情報・報道情報など25の様式がある。 一方、これらを扱っていくための「編集方法」として、松岡は、「データ情報」を扱うための基本技法である収集・選択・分類・流派・系統の5つの「編纂」(compile)と、「意味情報」を扱うための基本技法である要約・模型・順番・交換・適合・共鳴・比喩・図解・注釈・暗示・擬態・変容・歪曲・装飾・保留・構造・焦点・劇化・遊戯・翻訳・周期など59の「編集」(edit)の、あわせて64の編集技法を体系化している。  ちなみに、この「64編集技法」体系の最後には、“総合”と“創造”が挙げられているのだが、ここに松岡独自の編集哲学が発揮されているのを見ることができる。松岡は“総合”を「以上のすべての組み合わせ」とし、“創造”を「以上のすべての組み合わせ以外の創造」であるとしている[1]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E5%89%9B


否、彼は、他に変換できない「意味」を提出し、意味の絶対性を誇る。


しかし、それとて、アカデミズムを誇ることと大差ない。


ならば、松岡氏はニューアカデミズムの最期のヒーローである。




私は松岡氏を批判したのではなく、リアリストとしての松岡氏を礼賛している。


意味は翻訳不能である。


ならば、彼は孤高であるべきであり、いかなる魂とも妥協すべきではない。


        ◇     ◇     ◇


要約すると、読解(意味化)に厳密を期す松岡正剛氏は、膨大な意味を提出する。


しかし、それは、専門家の彼にとっての意味の最適化であっても、一般人(素人)にとっては、意味の最適化ではない。


そこで、バーナーズリーが提唱したような、「理解(意味抽出)とは、情報受信者(一般読者)にとって最適な意味を提出すること」となる。


ここにおいて、松岡氏も、バーナーズリーも、等しく正しいということになるだろうか…。







posted by sponta at 19:02| 東京 ☁| Comment(2) | 2012パラダイムシフト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
松岡氏と複数の共同作業をした研究者が、貴方の松岡正剛に対する意見は、正しい!とのコメントをくれた。

正しいのか、ルサンチマンかは分からない…。

(^▽^;)
Posted by at 2014年09月04日 07:14

最近でも閲覧がある。

2014年の記事を、2019年12月の私が添削するとこうなる。



昨今の「翻訳ソフト」の画期的な進化は、この記事で述べているような

・プログラムは y=f(x) 

ではなく、

ビッグデータを統計学によって解析することで、

・最適な y=f(x) を選択すること。



「殿」の意味は、お笑い芸人の間では北野武の意味だが、織田軍では信長である。
「殿」という語の使用状況を「統計ソフトが勘案して」、「殿」の意味が決定される。
つまりは、「殿」にリンクして、「明石家さんま」があれば、意味は北野武。「本能寺」があれば信長。



その意味で、松岡正剛氏は、どう定置されるのだろうか。

「意味の統合」を拒絶する松岡氏がサバイバルをするとしても、それは「アカデミズムという檻」の中だけ。

であって、貴兄が、松岡正剛氏に「共感する」なら、一般社会との距離・乖離を認識すべきである。
Posted by spt at 2019年12月03日 14:29
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