2014年05月01日

私は、メディアアートに興味はない…。

娘の下級生になったTehu君について、興味を持って、Twitterを眺めているが、彼は、メディアアーティストに憧れてるそうで、こんなインタビューをしている。

http://engineer.typemag.jp/article/tehuxmanabe

断っておくが、彼に興味を持っているのであって、「好き」というのではない。(^▽^;)



学校のお勉強が出来た人が、アートや芸術を深く理解しているとは思わない。

というか、アイドルという表層を愛でつつ、「AKB48のCDがクオリティーが高い」というような知性は、どうかと思う。

*

http://momoclosokuhou.2chblog.jp/archives/33330675.html

↑のサイトでも、彼は「ダンスのクオリティーが高い」と断定しているが、「ダンスの評価基準」を、彼は明確に把握しているのだろうか…。

情報を学問する学部で勉強をするならば、まず、

1.まず、評価基準を明確にすること。それが暗黙知ならば、形式知にしなければならない。

2.形式知になった評価基準は複数出てくるはずだから、それらの優先順位を明確にする。

3.さらに、評価基準が、必要条件(ネガティブチェック項目)なのか、十分条件(ポジティブチェック項目)なのかを吟味すべきである。

4.その上で、客観的な評価を下さなければならない。とはいえ、個では客観的な評価がくだせないので、さまざまな評価と対照しなければ、独断に陥る。




ダンスに限らず、パフォーミングアーツに求められるのは、アフォーダンス(意味を発していること)である。

アートは存在を提示し、デザインは意味を提示する。ということもあるから、意味の不在は、アートであるが、意味の不在を明確にしなければならぬ。
つまり、「秩序だった無秩序」は、作品としての完成度を意味するが、単なる「無秩序」や「意味の不在」は、作品の不出来を意味する。



ダンスと体操を分けるのは、伴奏音楽とタイム感を共有するかどうかである。
まず、その点において、吟味して尚、彼女たちに「作品としてのクオリティー」が存在するとは思えない。

ダンスにおいて、「表現」とは、正面を感じることである。
つまり、どんな状況においても、観客を意識していることは、踊り手が、観客に対して、「何かを訴えたい」ことを表現するのだ。
ここにおいて、アイドルグループたちの殆どに、アフォーダンスがあるとは、私には思えない。

さらにいえば、これは、多くが理解していると思うが、ダンスの振りに対するアイソレーション(体の各部分を独立して動かすこと)。
これは、素人にも分かりやすい。ロボットダンスなどの優劣は、素人目にも分かりやすい。

ただし、「振りが大きさ」に、素人はごまかされる、騙される。大きな振りでも、タイムが崩れているなら、零点である。

そして、タイム感を「メリハリ」を持って表現すること。

それらをすべて網羅しつつ、感情が開放されて、自由でいること。



それらのことを網羅して初めて、ダンスのクオリティーが高いといえるだろう。

たとえば、劇団四季のミュージカルのダンスは、ネガティブチェック項目を満たしているが、圧倒的な演出家からのプレッシャーにより、自由に表現することができない。

劇団四季の稽古場には、「一音落とす者は去れ」との貼り紙が書いてあるそうだが、「音程を気にしているようじゃ、演技者としてたかが知れている」。

青年座の西田敏行氏は、「セリフなどは道しるべ。大事なのは気持ち」と言い放って、高畑女優を絶望の淵に追いやったという。

音程を保つことに「俳優生命を賭された俳優達」が、ろくな演技ができるはずもない。アサリ演出家のマネジメントは間違っている…。



さて、Tehu氏が、メディアを理解しているかは、はなはだ疑問というか、理解していないのであるが、「メディアはフレーム」であり、「フレームの中にコンテンツ」が納まる。
そこからいうと、メディアアーティストは、「メディアでアートする」人たちであり、それは、コンテンツの不在ともいえる。

私は、そのような類の芸術は、即物的で、軽薄であると感じる。

フレームの中で踊るのがアーティストであって、新しいフレームを作る人は、「新しいジャンルを作って、一等賞を取りたい人」でしかない。と、私には思えるのである。

というか、「あたらしいフレームをつくる」というムーブメントも、ジョンケージやアンディ・ウォーホールの時代で終わっている。

IT技術をつかって、インタラクションの作品が散見されるが、「だからどうした…」というものが多いと感じているのは、私だけだろうか…。



つまりは、「人間の存在の意味」を考えるためのアートというジャンルは終わっている。なぜなら、アートという歴史的な文脈を、誰も感じなくなっているから。

そして、偏差値エリートの皆さんは、そういう芸術的な教養とは不連続なところにいるはずであり…。

posted by スポンタ at 00:00| 東京 🌁| Comment(0) | ウェブメソード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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