2014年02月02日

ゆとり世代の快挙…。

小保方晴子さんのネイチャー掲載は、ゆとり世代初の快挙だという。

ゆとり世代に関連して、娘の友人がウェブに載っているので見た。

http://news.mynavi.jp/articles/2014/01/07/sfc/

大学生が一様に語るのは、「自分たちの時代しか生きていないから、ゆとり世代の意味・特徴が分からない」と…。



ウィキペディアを引いてみる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%A8%E3%82%8A%E4%B8%96%E4%BB%A3

分かるのは、「ゆとり世代」が「さとり世代」になっていることぐらい。

以下は、ウィキペディアの引用。

ゆとり世代の文化・特徴[編集]

ここでは主に1980年代生まれのゆとり第一世代周辺の文化、特徴について述べてある。

情報化社会の急速な発展の中で成長した世代で、幼少期にはポケットベルやPHSが登場し、学齢期には携帯電話の普及率が上昇、飽和化し、インターネットも爆発的な発展をとげ、メールをはじめmixi、twitter、Facebookに代表されるSNSやソーシャルネットワークがコミュニケーションツールとして完全に定着した。通信端末の所持が不可欠な世代である[2]。

音楽においては主に1990年代、2000年代の影響を受ける。ただ音楽シーンにおける趣向、ジャンルの多様化、音楽メディアやインターネットの発達(デジタル・ダウンロードなど)などの影響もあり多彩な影響を受けている。

バブル経済崩壊のあとに長らく続く経済停滞の風潮を受け、戦後の経済成長期の世代と比較すると堅実で安定した生活を求める傾向があり、流行に左右されず、無駄がなく自分にここちいいもの、プライドよりも実質性のあるものを選ぶという消費スタイルをもっている[8]。

また、就職においては、厳しい就職状況から企業選択の視野が広がっており[32]、女性では専業主婦を希望する人も多い[8]。

レジェンダ・コーポレーション株式会社の入社後の意識調査によると、社会人になったゆとり世代の人間の中には、自分たちが「ゆとり世代」である、と認識しているものもいる[33]。

さとり世代[編集]

さとり世代(さとりせだい)とは、結果をさとり、高望みをしない世代のことで、2013年時点で20歳前後のゆとり教育を受けた若者を指す[34]。

「さとり世代」という言葉は、提唱者は不明であるが、「今の若者は、車に乗らない、ブランド服も欲しくない、スポーツをしない、酒を飲まない、旅行もしない、恋愛には淡泊だ」と指摘する山岡 (2009)を受け、2010年1月に「2ちゃんねる」のスレッド上で使用されたとされている[34]。その後、朝日新聞で取り上げられ[35]、徐々に浸透していった。また、2013年の新語・流行語大賞の候補にも選出された。

ただし、「さとり世代」と近い言葉は、「さとり世代」が登場する前から存在しており、ミニマムライフ世代(1980年から1988年生まれ)[36]、嫌消費世代(80年代前半生まれ)[37][38]などという言葉がある。

脱ゆとり世代[編集]

ゆとり教育の次の教育は脱ゆとり教育と呼ばれることがあり[15]、ゆとり世代以後の世代は、"脱ゆとり世代"と呼ぶ人もいる[8]。 しかしゆとり世代と同様に脱ゆとり世代の明確な定義は存在しない。 なお、大学受験では、センター試験から達成度テストへの移行、二次試験を学力の水準以外の活動を総合的に評価するように変更することが2013年10月31日現在の教育再生実行会議にて提言されている[39][40]。ただし、実施する具体的な時期は示されていない。


すべからく、世代論は不毛である。

とはいえ、センスさえ知識・経験の蓄積によって生まれるなら、教育システムの変化は、マス集団に影響を及ぼしているはずである。だが、それが「個を語る」ときに価値があるかどうかは分からない。つまりは、小母方晴子さんの出現を「ゆとり教育」のお手柄にすべきかどうかは分からないということ。

彼女がAO入試で早稲田大学の理工学部に入学したといっても、彼女は千葉県下のエリート校・東邦大学付属の出身(?)らしいから、AO入試があったから、彼女の研究者生活が始められたというのでもないだろう。



私は、娘の人生に19年間つきあってきたが、娘を見ていて、つくづく思うのは、「教育する側」が、「こどもたちに押し付けるべき情報」に対する確信を失っていること。

*

剣道の言葉に、守・破・離というのがあるが、守がないのでは、何も始まらない。

亡き勘三郎は、「型破りの役者」と言われたが、カタがなければカタナシだぁ。と、カタの重要性を指摘していた。


*

結果として、「こどもの自発性・創造性」が重視されているのであって、「自発性・創造性」の絶対的な価値が認められたのではなく、その裏に、大人たちの「自信喪失」があった。

つまりは、日清日露の大勝利は存在せず、バブル経済の後の失われた時代を大人たちは生きている。そして、教育制度にしても、「左翼思想」によって歪められてきたことを、多くが理解し、「右翼的教育」も「左翼的な教育」もどちらも力を失った。そのような時代の雰囲気の中で、こどもたちの「自生」に頼る教育が行われた。それが「ゆとり教育」。
などと、私は、断定してみる。



娘の大学では、グループワークが多いのだという。しかし、その実体は「教えること」の否定。娘は、もう、グループワークは取らないとさえ言う。何故なら、教えられぬままにグループワークをしたら、「知らない人」と「分からない人」の議論になり、結果として「自己主張の強い人」が勝つ。

傍の私から見ても、課題の成果物がビデオやプレゼンテーションだったりするのだが、「私のようなプロ」からすれば、素人の製作物でしかない。「同じサイズ」「同じポジション」で、延々とカットが連なるようなビデオをつくってしまう。

つまり、「映像編集における編集点の接着力は、その異質性に比例する」という法則を知らないのだ。
勿論、「同一サイズ・同一ポジションのショットを直結してはならぬ」という原則も知らない。


もっとも、この原則は、「映像制作の理論書を書くような素人(アカデミズムの世界しか知らない人)」は知らない。だから、世の中に手回っていないから、仕方の無いことでもある。



何も教えられぬまま、反発すべき価値観も与えられぬままの状況で、彼らはもがいている。娘の友人をはじめ、銀座のマックビルに集まった若者達の経歴は、彼らがもがいている証し。
今後、彼らが誇ってみたものが、彼らの黒歴史になるとも限らない。



http://hapikira.com/index.html

上記は学生起業の残骸である。ほとんど黒。


テレビタレントの石田純一氏は、「有名になることを目標」にした娘・すみれ嬢を否定したという。しかし、有名にならないと何も始まらないのが、日本社会かもしれない。

…そんなことを思っている。
posted by スポンタ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | ウェブメソード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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