2013年05月13日

ウェブのコミュニティーの形を考えていみる…。

2009年に東京大学安田講堂で開かれた第一回ウェブ学会の基調講演で、当時国会図書館の館長だった長尾真氏は、「あるべきはずの情報がないときこそ、真実を含んでいる」と指摘しています。長尾氏の言葉に従えば、「インターネットで真実に出会いたい」なら、「情報の不在」を探すこと。そのためには、インターネットのすべての情報を統合して、意味や価値を読み取ることが不可欠です。そうすれば、ウェブに暗躍する「広告主や権力者たち」に惑わされずに、情報を読み取ることできるはず。しかし、それがなんとも難しい───。



そこで考えたのは、「孤立したユーザーが集まった大衆」というイメージではなく、「対話によってつながっている分衆」のコミュニティーを使って、情報を吟味できないかというもの 
トーマス・フリードマンは著書「フラット化する世界」(2005年)において、「インターネットはフラットである」と主張しています。また、かつての共著者である佐々木俊尚氏は「フラット革命」(2007年)を書いています。しかし、私達は本当にフラットを求めているのでしょうか───。



フラット(平等)なコミュニティーにおいて、コミュニティーを存続させるには、他者を抹殺することはできず(敗者がいなければ、勝者もいないのですから…)、共存共栄のためのルールが必要です。しかし、そのコミュニティーで勝利をするのは、ルールを決めた人たちです。インターネットのコミュニティーをフラットに設計するなら、そのルールを決めた人達が勝利するのが必然です。

なかなかイメージできないかもしれませんが、金メダルを取るたびにルールが変更され、日本選手が不利な状況におかれて続けてきたオリンピックが好例です。



そこで「管理者がつくったルール」をもとに運営されるコミュニティーではなく、「一般ユーザーの対話」をもとにしたコミュニティーを考えてみました。

そこでは、「ユーザー同士の関係はフラット」でありません。つまり、情報量の多さや思考の妥当性によって他のユーザーからリスペクトされるユーザーが存在し、運営者とは別の権限を持っています。また、ユーザーは主体的にコミュニティーを作成できるので、多様に重合するコミュニティーが誕生します。それぞれのユーザーは同時に複数加入することができるので、モバイル(動的)に、アドホック(一時的)に振舞うことができます。これにより、ユーザーは「自分の立場(実名というワンストップサービス)」に縛られず自由に振舞うことができます。

つまり、「ユーザーが主体」になってコミュニティーが運営されるので、ダグラス・ラシュコフが批判したような「ソーシャルメディアの運営者の商品」にユーザーが成り下がり「理不尽なルール」に従うことはなくなるのです。



はてさて、どうなりますか…。
posted by スポンタ at 19:13| 東京 ☁| Comment(0) | ポストグーグル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

ファン
 メッセージを送る
 このブログの読者になる
 更新情報をチェックする
 ブックマークする
 友達に教える
RDF Site Summary
RSS 2.0