2011年03月30日

県立川越高校生への伝言:君は、石原都知事の「災害は天罰」発言に反論できるか?

私が後輩の君たちにメッセージを送りたくなった、もうひとつの原因に、石原都知事の「東日本関東大震災は天罰」との発言がある。

昭和な人・石原慎太郎氏は、前言を撤回しているが、それは「被災した人に対して失礼」との意味であって、本意を覆した訳ではあるまい。

そして、石原氏のような野蛮な人でなくても、自虐的な人、現代文明に懐疑的な人は、「今回の災害が、天の下した罰である」と、思ってしまうだろう。そういう人間的な良心さに付け込む人たちは、数多に存在するに違いない。

そのような思想誘導に洗脳・煽動されないためにはどうすればいいか。または、「災害は天罰」なる非サイエンスな言説に、サイエンスは答えることができるのか。

私は、その答えを持っていないと、自己崩壊に陥れられる。そう直感しているので、聡明なわが後輩たちには、その轍を踏んで欲しくないので、ここに解説したいと思う。



石原都知事は、「災害は天罰」と言ったが、天についての定義をしていない。

天という意志が存在するのか。その天とは、運命なのか。
「運命はあらかじめ決められている」のか。それとも、「人間の努力によって変えることができる」のか。
「人間の努力によって変えることができる」なら、それは「運命ではない」のではないか。

つまり、地震・津波と人の営みに「原因と結果」の関係が成立する。
そのことを石原都知事は指摘しているのだろうが、「人間の行動や精神的営み」が「自然災害」と相関関係にあるかどうか。を、吟味することはなかなか難しい。

それは、あるともいえるし、ないともいえる。
つまりは、不可知論(分からないことは分からないと認めて処理しようという考え方)。

つまりは、否定できない。つか、否定しない。だから、石原都知事はのうのうとしている。



私は、母校がスーパーサイエンスハイスクールであることは悪いとは思わない。
スーパーであって悪いことはない。

そして、私は、ハイパーなどと、沢尻の旦那のように、それを優越する立場が存在することで、自らを誇ろうとも思わない。

あるべきは、「メタという別の次元があること」。それを指摘すること。

言ってみれば、メタサイエンスなる立場である。



ウェブに詳しい人は、メタ議論というのを知っているだろう。

メタ議論とは、「議論のための議論」である。
具体的にいえば、「どうやって議論をすすめるか。結論を出すか」について決める議論。

たとえば、「多数決にしよう」とか、「ジャンケンで決めよう」というのは、メタ議論の結果、「発言は一人一回。反論は発言が終わってから」というのもメタ議論の成果。



私がいうメタサイエンスとは、「サイエンスという手法を使うかどうかを決めるフェイズ/次元」であって、「それがサイエンスを越える」などとは思っていない。

「メタなサイエンスな次元」は、「サイエンスそのもの」と、等価に存在する。

そういう立場だ。



これが「メタなサイエンスな次元」が、「サイエンスに君臨する」と、するならば、スピリチュアリスト/神秘主義者/宗教家になってしまう。

私は、そういう立場にはいない。
因みに、私は臨済宗建長寺派の在家信徒であり、葬式仏教徒以外の何者でもない。



「今回の大災害は天罰である。日本人は反省すべきである」。
これは極めて印象主義的な雑駁なテーゼである。

そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。

ただし、そのように曖昧なテーゼをあたかも一般化された議論であるかのように、東京都知事という立場で公式会見で述べることは、自らの社会的発言権を逸脱した行為であり、思想煽動の謗りを免れない。

それが私の結論である。



スーパーサイエンスな県立川越高校の現役生たち。
君たちは、石原都知事の「災害は天罰」発言をどのようにやり過ごしたのだろうか。

そのことがとても気になっている…。
posted by スポンタ at 10:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 県立川越高校 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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