2011年02月16日

スポンタの「この国のかたち」10: 「新しい歴史教科書」の価値観は、ウェブの時代にフィットしない。

西尾幹二氏は、かつて親しくさせていただいた方の友人である。
彼は、「国民の歴史」という大著をなしている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%B9%B9%E4%BA%8C

または、新しい歴史教科書

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8B%E4%BC%9A#.E3.81.A4.E3.81.8F.E3.82.8B.E4.BC.9A.E3.81.AE.E4.B8.BB.E3.81.AA.E4.B8.BB.E5.BC.B5



簡単にいえば、西尾史観は、自虐史観の裏返しでしかない。
それは、ある意味、自虐歴史観を紡ぐことで、沈没の危機に陥った東大アカデミズムが放った救命ボートでしかない。
そして最近では、米国・ハーバード大学から、サンデル教授が助け舟も出されている。

しかし、ウェブ情報を総合すると、国際金融寡頭勢力が、右翼・左翼というふたつのイデオロギーをつくり、冷戦構造の中で、戦争を起こし、経済的な世界支配を展開していった。そのストーリーの中に、西尾歴史観も含まれる。
そのようにしてイデオロギーの時代は終了したので、最近では、宗教対立という争点で、二大対立をつくろうとしている。その端緒が、チュニジアであり、エジプトであるというのが、先端的ネット者の見解である…。



ウェブ者でなくとも気が付けることは、「新しい歴史教科書」がテレビ局系の出版社から出されていることである。
学校の歴史に疑問を持つ人でなくとも、テレビマスコミ報道の歪曲性・恣意性に立腹している人は多いに違いない。その同様の論理の中に、「新しい歴史教科書」が存在する。とは、一体どういうことなのだろう…。

その意図を読みきれば、誰の目にも、西尾氏の立場が理解できる。蛇足気味に指摘すれば、司馬遼太郎氏もテレビ局系の新聞社出身であった…。

そして、東大アカデミズムの中にどっぷり使った西尾氏には、「自分がどういう立場において、発言権を得ているか」そのことさえ見えていないだろう。



端的にいえば、西尾史観は弥生神道的歴史観である。これは、唯物論的社会進化論や階級闘争的歴史には対峙できるが、縄文神道的歴史観の前には無価値である。

私の読んでいる歴史書は、弥生神道的歴史観を痛切に批判することで、階級闘争的歴史観を追認するものでしかなかった。
しかし、それは戦後の潮流の中での出来事でしかない。つまり、平成の世の中にあっては、もはや東大のキャンパスで言論対照が行なわれるような時代は終わっている。

それが、ベルリンの壁が崩壊したことの結果である。

*

ハーバード大学のサンデル教授が安田講堂で講義すること。それをNHKが中継することで、東大アカデミズムの失地回復が企てられているようだが、すでにかの地は、天下分け目の天王山ではない。1968年ははるかに昔になった…。

私が一時期、お世話になった人なので名前はあえて明かさないが、彼らは1968年のあのキャンパスで中心的な役割を果した人たちであった。その中に、西尾幹二氏も、西部邁氏も、そして、樺美智子氏もいたのであり、彼らが鬼籍に入る直前に、捲土重来を目指してさまざまな活動をしているが、それらに一切の妥当性はない。

平成のウェブ者、情報対照統合主義者のスポンタは、そういいきりたい。つまりは、彼の発言は否定しない。しかし、その妥当性は限定的であり、その社会的役割も過渡的なものである。


(以上で、スポンタの「この国のかたち」は終了です。
興味がある方は、最初からご覧ください)

http://sponta.seesaa.net/article/184652980.html#more

posted by スポンタ at 08:10| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | この国のかたち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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