2011年02月12日

スポンタの「この国のかたち」06:唯物史観とネイティブジャパニーズ。

唯物史観とはよく言ったものだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E5%8F%B2%E8%A6%B3

そして、社会進化論。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96

唯物史観の対極にあるのは、「人類の歴史は、霊的退化の歴史である」の一言だろう。

つまり、唯物史観は、スピリチュアリズム・神秘主義と同列に扱われていい。何故なら、「科学的」なる立場は「非科学的領野」を含まない。ならば、この世界全体を把握しようとするなら、「科学的」は「非科学的」とともに提示されなければ不備があるからだ。




さて、唯物史観のWikipediaの記述には、NHK高校講座に書かれている文化相対主義のニュアンスは一切ない。

文化相対主義。

しかし、やがてそこから新しい考え方が生まれていきました。
例えばフランスの思想家モンテーニュは、1580年に出版した『エセー』という書物の中で、次のように言っています。
「フランス人の習慣と異なるという理由だけで、世界各地の習慣を否定していいのだろうか。
自分たちが基準とする秩序観は、今のヨーロッパという特定の脈絡においてのみ成立するものなのではないのか。それを普遍的価値とする根拠はあるのだろうか。」

ここから生まれたのが、それまでのキリスト教中心、ヨーロッパ中心主義とは別な「文化相対主義」という考え方でした。
たとえヨーロッパ人には不自然に見えても、その土地で有益とされるのならば、その習慣はそれとして認めなければならないという考え方です。拒否する前にまず深く理解しようとするということです。ただし、その上でどう行動するのかまでは文化相対主義は語っていません。
文化相対主義は、大航海時代がヨーロッパにもたらした新しい世界の見方でした。

文化相対主義とヨーロッパ中心主義というこの2つの考え方の矛盾をどう解決するかが、その後のヨーロッパでは大きな課題になりました。
結論を言えば、19世紀に出てきた社会進化論という考え方がこの矛盾に一つの答えを出しました。
「世界の諸文化は、ヨーロッパを頂点とする未開から文明へという発展段階のどこかに位置づけられる」という考え方です。これは、ヨーロッパ中心主義を満足させます。
同時に、「世界の諸文化それぞれも各段階にふさわしい発展を遂げているのであり、
今後もさらに発展していくだろう」と捉えます。ヨーロッパ中心主義と相対主義をかね合わせることができる理論であるとされたのです。
しかし、これもヨーロッパを発展の頂点におく西洋中心の思想であることは変わりありません。この考え方が、19世紀以降、列強が世界各地に植民地を求めていく理由付けになりました。
世界の諸民族諸文化の位置づけは、今日にいたるまで、私たちの大きな課題であり続けています。

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/archive/resume019.html




戦後の日本の歴史は、唯物史観・社会進化主義という尺度によって、耀変されたようである。

簡単にいえば、大家族制度から、核家族化になるのは、進化である。
三種の神器たる3C(カー、クーラー、カラーテレビ)を使うようになるのは進歩である。というようなトレンドである。

しかし、核家族化は、地域のコミュニティーを崩壊していくのは明らか。核家族化がなければ、昨今の老人の孤独死の多出などあるはずもない。
勿論、大家族制度における封建的な桎梏はあるにしても、それをすべて否定して核家族化に進むことが、人間社会としての進歩かどうかは、疑わしい。

たとえば、経済的に生きること。
これによって、私たちは情感に溢れた生活が出来なくなった。
さらにいえば、株式市場という、お金を借りて事業を営むことを是とするやり方が一般的になることで、日本の経済自立は瓦解した。

そのような仔細に眼を向けると、戦後の私たちの生活・文化が進化したとは思えない。



さて、この本質を軽々と断言すれば、縄文時代は「クニという簒奪のシステム」を排除したコミュニティーだった。と誇ることができる。
だが、そのようなコミュニティーは外襲に弱く、軽々と制服されていった。

縄文時代は、先祖崇拝・自然崇拝しかない。

ある論者に言わせると、古墳時代こそ、「自らの祖先信仰」を破棄させる「恐怖的支配」の始まり。現世も死後も、自分たちに隷属させるという恐怖政治がここに始まり、

そののち、仏教を使い、

それでも収まらぬと、年貢。

そして、明治以降は神道となり、

戦後は民主主義、資本主義でネイティブジャパニーズを支配しつづけている。

2010年においては、外襲勢力は、ニューヨーク証券取引所の影響を持って、ネイティブジャパニーズを支配しているが、紀元3世紀においては、前方後円墳で、私たちを支配していたのだ。

勿論、その状況において、ネイティブジャパニーズの奴隷的立場にあるか、それとも外襲勢力の傀儡となるか、使徒、役人となるかは、人それぞれだろだろう。

とはいえ、そのような「隷属的立場」のままで、「自らの存在の意義」を見出し、それなりの「生きる喜び」を生み出してきた。それこそが「ネイティブジャパニーズの素晴らしさ」であろう。

戦後の自虐史観と結びついた唯物史観では、天皇制をネイティブジャパニーズを奴隷化した「奴隷頭」と唾棄する論調がある。だが、私はそう思わない。
天皇の血統が、「朝鮮・中国に由来するもの」であっても、「日本の地の神」や「日本語という言霊」の影響によって天皇の霊統が耀変され、「隷属された人々の充実した生活」模索してくようになった。


そういうハイブリッドな姿こそ、日本ではないか…。

何故、仏教は、日本社会において葬式仏教に成り果てたのか。それは退廃ではけっしてなく、ハイブリッド(発展的折衷)である。そうした意味において、明治以降捏造された国家神道の脆弱さは大いに指摘されていいだろう。

さりとて現代社会において、国家というものを単位に国際社会が営まれているのであり、日本に独自の国家が存在しないならば、外襲勢力の支配下に甘んじなければならぬなら、縄文を讃美し、国家を否定するのは、現実的ではない。否、それこそが、あらたなる外襲勢力の支配下に陥るストーリーでもある。



これは漢字学者へのオマージュである「白川静読本」に書いてあったことだが、作家の荒俣宏氏が、北陸のUFO博物館に行ったとき、NASAの文書に次のように書いてあって爆笑したといいます。
「地球人は、自分たちよりもより高度な知的生命体と出遭ったとき、自分たちの文化を維持しつづけることを考えなければならない。その意味で、地球人は、「戦後の日本」を大いに参考にすべきだ」

NASAは分かっていない。そればかりではない。アメリカ文明に蹂躙された戦後の日本だけではなく、古くは韓国・中国文明の陵辱にも、自らを失わなかった。それが、ネイティブジャパニーズの土性骨である。



2012年のアセンションを控えて、UFOが既に多数飛来していると聞く。ならば、すでにネイティブジャパニーズなる精神が、「地球人の寄って立つ支柱」となっているのかもしれない…。
posted by スポンタ at 05:42| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | この国のかたち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/185282944

この記事へのトラックバック
ファン
 メッセージを送る
 このブログの読者になる
 更新情報をチェックする
 ブックマークする
 友達に教える
RDF Site Summary
RSS 2.0