2011年02月09日

スポンタの「この国のかたち」03:愛という洗脳…。

早稲田大学で日本語を勉強している留学生の女の子は、第二専攻が演劇であり、将来は女優になりたいというので、日本の文藝が表現するのは、「もののあわれ(pathos for missing , Everything must change. Man, day, prosperity...they will disapear..... )」であると伝えた。 日本語をある程度喋れる彼女にしても、日本の文化についての用語を知っているはずもなく、無常という概念をなんとか伝えようと努力をした。



西欧文化では、「愛」が芸術のテーマですよね。と質すと、彼女は頷く。そこで私は、「日本に愛という概念がやってきたのは、明治時代以降。さらにヒューマニズムが広がったのは、第二次世界大戦の後です」と言った後、「愛という概念は、こどもたちを戦争に行かせる論理である」と付け加えた。「愛というコンセプトがあれば、戦争ができる」と。

すると、彼女も、盛んにローマ教皇の話をしながら、キリスト教とともに愛という概念が広がって行ったヨーロッパの歴史を話してくれた。そして、彼女は自らが無神論者・無宗教なことを告白する。彼女が無心論者になったのは、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教がつねに戦争を起こしてきたからのようだ…。

「私は日本人だから、輪廻転生を信じている」と宣言したあとで、「死んでみたら分かりますよ。それでいいじゃない。ボクだってそう思っているだけで、死んだ後のことを確かめたわけじゃないんだから」と、朗らかに答えた。



「愛が、若者たちを戦争に導いた」ということについて、不条理劇:Theater of the Absurdのことを説明した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%9D%A1%E7%90%86%E6%BC%94%E5%8A%87

彼女は、サルバトール・ダリのシュルレアリズムの演劇を演じたことがあるというが、ベケットの名前は知っているも、演じたことはないという。私は、シュルレアリズムはオートマティズム(憑依による自動動作)を含む心理主義が神秘主義的に耀変したものでしかなく、不条理劇と対極にあると論じた。

私が指摘したかったのは、ナチスドイツにおいてゲッペルスが思想宣伝をしたこと。そして、レニ・リーフェンシュタールやフルトヴェングラーなどの芸術領域において、思想宣伝的な作品が行なわれた。それらは直接戦争を讃美したものではないが、ドイツは自らの文化を誇ることで帝国主義を輝かせ、「隣国への侵略を是認する世相形成」に尽力したに違いない。

Wikipediaにも書いていないが、戦後のヨーロッパにおいて、「演劇や芸術の感動が、人々の心を陽動・陶酔させ、操る」そのことの危うさを、多くの演劇人が目覚めたのではないか。「ゴドーを待ちながら」そういう演劇ではないか。
その延長線上に、シェーンベルクの12音技法があり、ジョン・ケージの「4分33秒」があり、

美術では、マルセル・デュシャンの「トイレの便器の芸術」がある…。

http://www.ne.jp/asahi/yagi/piano/other/duchamp/duchamp.htm



ラーメンウェスタン映画「タンポポ」で外国にも知られている伊丹十三氏は、フランスの文学者の言葉を引用し、「芸術とは、観客の自由に対して訴えるものである」と定義している。その言葉は、特定の感動・感情を引き出し、人々を洗脳brain washingしてはならない。という自戒の言葉でもあったのだろう。

そして、私は無感動を求めに劇場にいかないし、トイレの便器を見に美術館にもいかない。また、静寂を求めてコンサートホールに行くことなど、真っ平だ。
私は、にじり口を作らなければ、茶室に刀を携えることをやめることが出来ないような、戦国の武士ではない。

このようなメディアを規程するための芸術など、糞食らえと思っている。



日本の芸術の伝統は、「もののあわれ」、「無常」を表現することであって、西欧の芸術のような「愛」、「ヒューマニズム」ではない。
縄文文化においても、「家族や隣人を愛することはあったに違いない」。しかし、集団の危機にあって、「集団の存続たる究極の場面」において、「責任ある立場の者」は、「愛」、「ヒューマニズム」に反スル決断を行なったに違いない。
さらにいえば、「自らの集団・集団の構成員」に対する「愛」「ヒューマニズム」は、非集団・非集団構成員に対して、「愛やヒューマニズムと対極にある精神」を当然のように導き出したに違いない。

そのように考えてくると、「愛を訴える西欧の芸術」と「無常・もののあわれを訴える日本の芸術」の違いが明確になってくる。

そして、留学生の彼女が教えてくれたバイキングの姨捨風習のことを知れば、先ヨーロッパ文化も「愛・人道主義を越えたリアリズム」で営まれていたのであり、日本人に知らされている「愛・ヒューマニズム」は、捏造宣伝されたものでしかない。と、断じることができる。

そうそう。彼女は、ポピュラー音楽の中で、洗脳のために作られた曲が持っている特定の周波数を感じるという…。
私はユーロビートあたりが臭いと思っているが、彼女のように直感はない。彼女は、女性は男性よりも右脳を使っているのよ。と誇らしげに言う。
論理の奴隷である私としは、ビートルズの曲のタイトルが必ず歌詞の中に入っていること。そして、歌詞の冒頭が曲のタイトルの場合も多い。これなどは典型でないか…。と、直感するのみだ。




ところで、有名俳優・有名女優のご令嬢がテレビドラマでデビューするという。
俳優は演技をすることが仕事だが、当該ご令嬢は「今回、演技をするのが初めてです」と、事も無げに仰る。では、その容貌がゴールデンタイムのテレビドラマに相応しいのかといえば…。
すでに、2ちゃんねるにスレッドが上がっている。

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1297178393/-100

私は日本には白樺派的な芸術の伝統があるし、素人俳優を使うことで、アズナブールを悔しがらせたフランスのロベール・ブレッソン監督を尊敬しているから、素人芝居を否定しない。

だが、今回は当該両親の非情を思う。

あの名物番組で、「杉村春子をめざします」と絶叫していた母親氏が、何故、俳優修行もさせずにデビューさせたのか。俳優は自らの肉体を晒すことによってしか成長できない。との強い決意なのだろうか。もし、そうだとしても、それに付き合わされる視聴者はたまったものではない。鳳蘭氏のようにご令嬢を文学座の研究生にする手もあったろうに…。

とはいえ、それを確かめるために私は、当該ドラマを見るのだろう…。そして、そういう視聴者は多いに違いないから、視聴率を稼ぐのかもしれない。
もし、そこに容貌ではない二世俳優の魅力がそこにあるなら、素晴らしいし、そうでないなら、残酷な親の決断があったのだと思う。

そして、日本のドラマは学芸会と化し、視聴者の信頼を無くし、誰も見る人がなくなっていくのだろう…。
posted by スポンタ at 07:02| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | この国のかたち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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