2010年12月17日

岩井志麻子嬢、水嶋ヒロ小説を語る…。小説とは何か。

以下は引用である。

http://entamegeinounotubo.seesaa.net/article/173279899.html




水嶋ヒロ『KAGEROU』はダジャレが満載!?『イギリスならジンだな。イギリスジン』発売前に中身が漏れないよう、徹底ガードされていると噂の、齋藤智裕こと水嶋ヒロさん(26)の処女小説『KAGEROU』。おおまかなあらすじだけは発表されているものの、その内容についてはベールに包まれていました。

そんな中、今日発売のFLASHさんに、発売前の原稿を一読したという作家・岩井志麻子さんの書評が掲載されていました。

第5回ポプラ社小説大賞で大賞を受賞した、水嶋ヒロさんの『KAGEROU』。初版は異例の45万部と、発売前から注目を集めています。

そんな『KAGEROU』の原稿を入手したというFLASHさん。作家の岩井志麻子さんに感想を聞いています。

(以下引用)
「内容はほんまにわかりやすい。ちゃんと小説になっている。構成や時間軸も意外にしっかりしてると思いましたよ。私もそんなに膨大な数の本を読んでるわけじゃないけど、なにかのパクリだとかは感じませんでした。登場人物の名前も変に凝ってなくて記号っぽくていい。ヤスオとかアカネとかね。あと、すぐに読めちゃう。これは最大の長所ですよね。
やはりつまらん小説はなかなか進まないですから」(以上引用 FLASH)

と、なかなか高評価なよう。しかし、ひとつ気になるのが、作品中に随所で出てくる“ダジャレ”なのだとか。
たとえば、こんな感じ。

『イギリスならジンだな。イキリスジン、なんちゃって』(本文より抜粋)

岩井さんは、この“ダジャレ”がどうしても頭から離れないと言います。

(以下引用)
「ジンとイギリス人の『ジン』をかけてるようで、ほかにも『タバコを吸いません、すいません』とか、ところどころ、面白いの? 志麻子がやっぱり岡山のオバサンだからわからないのかしら? みたいなダジャレが複数挟み込まれていて、そこばっか覚えていて頭から離れない。これは校正段階で削るべきだったんじゃないかな」

さらに、作品の冒頭部分にもプロの作家らしい苦言を呈す。

『何十万という人間がひしめきあって暮らすこの街で、誰もいない暗くて静かな“寂しい場所”を見つけるのは至難のワザだ。しかしヤスオが見つけたこの場所は、奇跡的にその条件をほぼ完璧に満たしていた』(本文より抜粋)

リストラや借金に苦しみ、人生を悲観する40代の男性・ヤスオが廃墟となったデパートの屋上遊園地で自殺をしようとするが、謎の男に助けられるというところから物語は展開するのだが…。「自殺というか未遂というか、未遂すらいかないんですけど、出だしの部分の話を引っ張りすぎですね」

というのも全236ページあるなか、自殺を思いとどまり、次の展開に進むまで約4分の1の分量を要しているのだ。

「そのわりに主人公の不幸が類型的なんです。リストラされたとか、借金があるとか。これは多くの人の大雑把な悩みなんでしょうけど、危機感や切羽詰った感が出ていないし、ものすごく死に悩んだ感じがしてこない。苦しみの描写が脚本みたいなんですよ。そこでヒロが悩んだ。『なんで俺だけ?』と苦悩の表情を作った…みたいな。あと、主人公と助けにきた男性に個性がなく、最後までどっちがどっちだかわからなくなる。人物描写に深みがないんです。まぁ、しょっぱなの作品の出来がよすぎたらその後が続かないでしょうから、スタートとしては上出来なんじゃないんですかね」

気になるラストシーンにも触れた。

「う〜ん、この終わり方は思いつくようで思いつかない“新しい”発想。今後は同業者ということになるんでしょうが、私とは絶対に被らないという意味では安心しましたよ」
(以上引用 FLASH)

あらすじが発表された時点で、ラノベみたいだ、とか、『笑ゥせぇるすまん』みたいだ、とかいろいろいわれていましたが…。

ダジャレ満載とは驚きですね。もう少し深刻な雰囲気の小説なのかと思ってました。それとも、深刻な雰囲気を少しでも和らげるためのダジャレなのでしょうか。

審査員が
「シリアスであり、SF的要素も含んだ新しい形の文学である」と絶賛したこの小説。岩井さんの評価も、決して悪くはないようです。

さて、明日15日発売のこの小説、果たしてどれくらい売れるんでしょうか。ミリオンセラーとかいったらすごいですよね。
注目です!

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


さて、私は、そのような小説に1500円を支払うような経済生活をしていない。

ただただ、芸術・表現というものを舐めているポプラ社の編集者達と、それに乗った・乗せられた水嶋ヒロ氏の悲しい運命を思う。



このブログで私は再三指摘しているが、「よき芸術」の規範・条件が暗黙知化されることで、業界が新規参入者を拒絶するとともに、同業者との相互不可侵な関係を構築している。

きっと、水嶋ヒロ氏は、小説学校に通ったことがないだろう。

『何十万という人間がひしめきあって暮らすこの街で、誰もいない暗くて静かな“寂しい場所”を見つけるのは至難のワザだ。しかしヤスオが見つけたこの場所は、奇跡的にその条件をほぼ完璧に満たしていた』(本文より抜粋)


志麻子嬢は、「出だしの部分を引っ張り過ぎ」と印象批評をしている。

その部分を私が形式批評するならば、作品の冒頭部分で、「寂しい」などという形容詞を使うことは、小説を本格的に学んだ人なら、あるはずもない。

私の師匠であるシナリオライター・首藤剛志氏は、「小説において、形容詞は使ってはならぬ。という掟がある」との小説の基本を教えてくれた。

定法を守ることだけで芸術が成立するなどということはないし、芸術ではなく娯楽でもいいのだとしても、禁欲的にはなるべきだと思う。

「寂しい」という形容詞が、小説の価値を最低にまで貶める。そういう効果を果していることを、俳優新人作家は気づこうとしない。

というか、何故、彼の担当編集者が、それを残したままにしたのか…。




ここに、私の高校時代の現代国語の先生の松本成二氏が、名著「現代文の科学的研究」で次のようなテキストを引用してみる。

先生のことを知らぬ人は多いのかもしれないが、一時期、先生は読売新聞に「大学センター試験の現代国語の問題の解説」を書かれていたことを思えば、先生が周囲の人たちの尊敬を集めていたことを理解できるだろうか…。

次の文章を読んで、問に答えよ。

夜が迫ってきた。沖にはいさり火が点々と見え始めた。高く掛かっていた半かけの白っぽい月が何時か光を増してきた。が、真鶴までは未だ一里あった。丁度熱海行きの小さい軌道列車が大粒の火の粉を散らしながら、息せき彼等を追い抜いていった。二台連結した客車の窓からさす鈍いランプの光がチラチラと二人の横顔を照らして行った。(志賀直哉 「真鶴」)

問1 A:この文章は「二人」の気持ちを直接にはひとつも示していないが「二人」の気持ちはよくあらわれている。それはどんな気持か。二十字以内で述べよ。

   B:また、その気持を表出する上で、全文の構成にひびく最も大切な言葉を文中の一語をもって示せば、それはどの語に当たるか、記せ。


これは、大阪大学の現代国語の問題だそうだ。松本先生は、同著の冒頭にこの問題を引用し、さらに「設問は最近の大学入試問題としては出色のものである」と付け加えている。

松本先生は、次のように分析する。

---------------------------------------

第一段落(描写):夜が迫ってきた。沖にはいさり火が点々と見え始めた。高く掛かっていた半かけの白っぽい月が何時か光を増してきた。

第二段落(説明):が、真鶴までは未だ一里あった。

第三段落(描写):丁度熱海行きの小さい軌道列車が大粒の火の粉を散らしながら、息せき彼等を追い抜いていった。二台連結した客車の窓からさす鈍いランプの光がチラチラと二人の横顔を照らして行った

---------------------------------------

松本先生は、「この『描写か説明か』という区別は、ロラン・バルトが『人称的か非人称的か』と区別わけしたのにほぼ近い。人称的とは文法に言う人称と異なり「主語が私であろうと彼であろうと、作者の登場人物に対する思い入れの深いもの、つまり、感情移入の色濃いもの。
非人称的とは、作者の登場人物に対する思い入れの浅いもの、つまり、感情移入の淡いもの程度に使っているようである。
その用語に従えば第一段落は非人称的、第二段落は人称的、第三段落は非人称的ということになる」と記している。

先生は、さらに小説という表現形式を次のように分解する。

---------------------------------------

小説の構成内容:

説明文
描写文
会話文

描写文は、
内面描写と外面描写(自然描写)に分かれ、

さらに内面描写は、心理描写と性格描写に分かれる。

---------------------------------------

先生は、この提示文の特徴として、漸層法(climax)が使われていることを指摘する。

「夜の接近」、「漁火の発見」、「いや増す月光」と、律動が高まってくる。つまりは、夜になり、いままで見えなかった漁火に気がつき、さらに暗くなり、月の光も増してくる。そういう時間の経過を志賀直哉は効果的に小説化している。

そのような分析の後で、松本先生は、この問題の答えとして、

A:「夜が迫っても目的地になかなか着かない焦り」
B:「未だ」

と、ゆるぎない正解を提示する。



小説の神様・志賀直哉と俳優新人作家を比べることは残酷すぎるのかもしれない。

ただ、問題は、この小説が、編集者との共同作業の結果として成立した事実である。

小説に定法などないのかもしれぬ。自由に書けばいいのかもしれぬ。
ただし、それが如何なる定法にも合致しないとするならば、それは「小説という方式を瓦解させていく」ひとつのムーブメントを作りかねないと危惧する。

たとえば、起承転結、頭叙法、序破急などのいずれものタイプに属しない小説は、小説ではなく手記に過ぎないだろうし、描写と説明の区別が曖昧な小説も小説ではなく、タレント小説とでもいうべきものかもしれない。


とすれば、タレント小説でしかないものを、文学賞を冠したポプラ社こそ元凶であり、それに乗せられた水嶋氏は被害者なのかもしれぬ。

読者がいれば、小説家という商売は成立する。私はここで偉そうなことを書いても、小説志望が果されない初老の親父に過ぎない。だが、水嶋君は小説家だ。それでいいじゃないか。

そう、水嶋氏にはアドバイスしたい。
賞なんていらないさ。

…と。ここにきて、彼が2000万円を辞退した意味がようやく理解できた。

読者を持っている人は作家である。それでいいじゃないか。その意味で、加護ちゃんも立派なジャズシンガーである。
posted by スポンタ at 09:08| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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