2010年01月27日

アカデミズムはオブジェクト指向の波に耐えられるのか…。

…というのが、目下の課題かもしれない。





このところの記事で書き続けていることをまとめれば、以下。

「アカデミズムなテキスト」で展開される論理は、コンテンツ系の情報ばかりで、評価系の情報はほとんどない。

その理由は、評価系の情報をいれると、「論旨が脆弱になる」からである。

イメージできにくい人には、以下な感じ。

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スポンタの記事はウェブの未来を論じるには、パッケージ型情報と非パッケージ情報という概念が重要と指摘する。(コンテンツ系情報)

スポンタの言論は、独りよがりという読者評もあるし、ブログランキングはたいしたことはない。(評価系情報)

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弁証法では、予定調和的なアンチテーゼ(反論)を提起し、弁者に好都合なジンテーゼ(止揚された結論)を導き出す。だが、それは時として、弁者の自己都合な論理展開であって、情報の受け手は煙にまかれた感じになる。

弁者にとっては、止揚したと思っていても、「上下左右前後のないウェブ空間」では、止揚されたものが「上位フェイズ」に存在するとは限らない。




さて、
2005年。私が、体罰論者として2ちゃんねるでバッシングされたのは、その前年にブログで起きた「紙・布オシメ論争」に起因する。
当時のブログで私は、「紙オシメは、あかちゃんと母親のコミュニケーションを堕落させる」と、論述した。

あかちゃんの不快を解消させることを母親が行なうことで、母親はあかちゃんの信頼を得る。
紙おしめといえども不快でないはずはなく、濡れた紙おしめのままで放置することは、育児放棄に等しい…。

それを読んだ仕事をしながらあかちゃんを育てる母親ブロガーは、「論理として筋が通っていることは分かるんだけど、言葉巧みにごまかされた感じがする」と、不満・反発した。

当時の私は、女性にありがちな不明と唾棄したが、今にして思えば、私はその「反・紙オシメ論」は評価系情報を隠蔽。オブジェクト指向的なデータ提出をしていなかった。

結果、私は、「オシメに関する最重要争点」とした「親と子のコミュニケーション」事大主義に陥っていた。

確かにオシメがあかちゃんと親のコミュニケーションツールであることは確か。
しかし、それが「オシメの機能の全て」ではないし、「親と子のコミュニケーション」もオシメによってだけ成立するものではない。

つまりは、職業婦人が「紙オシメを使わざるをえない切実な事情」は否定されるべきものではないし、その事情に鑑みて、別の「親と子のコミュニケーションツール」を活用することで、素晴らしい子育ても可能であることを示唆すべきだったろう。

その遺恨が、次の年、私に対する「体罰バッシング」となって、2ちゃんねるで表出した…。





事大主義とは、専制的な情報発信である。
…私は、布紙おしめ論において、弁証法を使って自己都合な専制的な情報発信を行なった。

そのようなコミュニケーションが馬脚を現していくのが、ウェブコミュニケーションといえる。

否、そのようなコミュニケーションが孤立していく…。というのが正しいのだろう。

結局のところ、アカデミズムはウェブに表出しない。
最近でも、RSSリーダーのキーワードに「ウェブ学会」としても、芳しい新情報が登場しない。



ま、そういうことなのだと思う。

アカデミズムは、すべてを知っていて、「負ける戦は始めない」のである。
posted by スポンタ at 22:03| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ポストグーグル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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