2010年01月26日

インターナショナルではなく、グローバルな時代になったから…。

つーことは、インターナショナルの根幹にあるナショナル(国家)の重要度は低下し、グローバルという非国家的なレベルでの世界統合が重要になったということ。

そういう現実のリアリズムから、歴史は、「冷戦という二大大国間の戦争という物語」から、「テロリズムという非国家的な勢力による紛争という物語」に移行している。



私たちの見ている世界…。

とはいえ、私たちが観ている世界は「誰かが語ったもの」でしかなく、「語る理由をもった誰かの暗黙の意図」によって、歪曲している可能性を否定できない。
分かりやすくいえば、フジテレビの朝ワイドの冒頭で、小倉氏が「この楽曲はいい」と嘯いても、それは楽曲を販売する企業の影響によって言わせられているだけであって、視聴者には、その楽曲が本当にいいのかどうかは分からないのと同じ構造。



朝日新聞はかつて「新聞を疑え」とメディアリテラシーを喧伝したが、アカデミズムに「そのような内省的な姿勢」はない。

すべての言論者は生活者でもあり、その中でどのような言論が語られてきたのか…。
そんな考察をしないのが、東京大学をヒエラルキーの頂点にした日本のアカデミズムだろう。



その出身者である池田信夫先生は、

最近、「ネットで直接民主主義を実現する」とかいうくだらない議論があるが、重要なのは政治に参加することではなく、政治が個人の生活に干渉する領域を最小化することだ。ポズナーも指摘するように、人生には政治より大事なことがたくさんあるのだから。

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51352174.html


なんて、嘯いている。

それって、同じく東大出身者の東浩紀氏の「ネットがあれば政治家いらない・SNS直接民主制」提案に対する批判なんだと思う。

http://www.j-cast.com/2009/10/24052476.html

東氏の論理は、「お花畑論」ってことで、ネットでは批判されていたっけ…。



池田先生も東氏も、いまだアカデミズムな立場に存在する人。
だから、ほとんど生理的に、「自分達が東大でアカデミズムに洗脳されいている」という事実を意識できずにいるんだと思う。



かつて、私は東大出版会の「知の技法」という本を読んだ。

http://blog.tomiyama-stationery.com/?eid=1061992

読後の感想をイメージ的に形容するなら、「結局のところ、東大の先生たちは、自分達に扱いやすい学生を大量生産すること求めている」。
その現出が、「知の技法」という本だった。

さらにいえば、すでに1994年時点の東大教授たちが、「彼らの論理思考の方法、対論の仕方の妥当性」について揺らいでいた。という現実が見え隠れする。

教員にも学生にも、優秀な頭脳が集っている学府である。

2009年の私は、アカデミズムの常道ともいえる「ヘーゲルの弁証法」がひとつの仮説の提出方法に過ぎず、「発信者に都合の良い言論を提出するための詐術(正反合の論理展開に、評価系の吟味はない)」と気づいたのだが、1994年に優秀な東大の先生たちも自らが紡いできたアカデミズムの脆弱性を痛感し、「知の技法」という経典をつくり、東大的なアカデミズムの引き締めを図ったのかもしれない。

つまりは、暗黙知として成立するほどの揺ぎ無さを、アカデミズムの知が持っておらず、総本山の東京大学が「知の技法」という経典をつくり、そのアカデミズムの教義を確立しなければならなかった。

しかし、その経典の構造さえも、「技法的体系を示す論述形式」ではなく、アフォリズム的(至言集)な形式となっている。


私は、かつてマクルーハンがアフォリズムに語ることでアカデミズムから批判された故事を思い出す…。



結局のところ、アカデミズムの根本は「文献主義」。ならば、「書くとき」に「書く人」の利害が影響することは免れない。
生データを解析し論文にするところで、「特定な意図」が働き、データ解釈は「ほとんど物語」に過ぎない。

私は、その妥当性を吟じる資格はないが、「地球温暖化問題」に関して、「クライメイトゲート」なる争点が成立するのも、そういう「物語性」を証明している。



「科学的なる概念」が成立するなら、「非科学的なる概念」が成立するのは当然だし、「科学的なる世界の妥当性」を確立するなら、「非科学的なる概念との対照」の中で、「科学的な世界の有用性が実証される」べきだろう。

ま、そんな感じなんだけどなぁ…。(^^;)
posted by スポンタ at 08:56| 東京 ☀| Comment(6) | TrackBack(0) | ポストグーグル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
東氏のお花畑は確かに色々粗があるけど叩き上げれば本質的に結構面白いと思うんだけどなぁ。
少なくとも政治屋を駆逐するか牽制する、プロフェッショナルな政治家を育てるのにとても力を発揮する考え方だと思う。
インターナショナルとグローバリズムの関係は併存ですよ。グローバリズムは今だネット環境によって急激に現れた珍客であって地球規模の諸関係の調整についてノウハウや実績を持たない・責任の担保が無いという位置。
アカデミズムの内省とオカルト系を含む陰謀論について自分はここでコメントしませんが、どうもスさんの言及の仕方では求めるような効果・結果を生まないと思われます。
Posted by ト at 2010年01月26日 19:20
コメントありがとう。

トリルさんはとても建設的な人で熱い人だけど、私はもっとシニカル。だから、効果・結果を求めるのではない感じがしています。

つまりは、アカデミズムも、オカルト系を含む陰謀論も、自らの利害によって身動きがとれない。
そして、非アカデミズム・非オカルト系を含む陰謀論な領域が今の日本に存在するのかといえば、殆ど存在しない。

結局のところ、覚醒できたとしても身動きがとれないところに誰もが存在する。

今週、浅田彰や宮台を見に行こうと思っているんだけど、それはアカデミズムの体たらくを確認するための、スポンタにとっては極めて傲慢な作業。

ま、謙虚になれたらいかないことにするけども....
Posted by at 2010年01月26日 22:59
カルトが他カルトを批判しても他者的には単なるセクト争いでしょ?「ムー好き」が「ムー好き」に語るような塩梅なら、アカデニズムと陰謀の取り上げ方は相づちを打つ様にこのままで構わないでしょう。
しかし片目で「ムー」を覗いてる様なギャラリーをスーさんが此処の読者として想定するなら、相手がアカデニズムや権威であってもその世界像にどっぷり埋没したような表現は現実がどうあれ主張の客観性を阻害するんですよ。
つまりネタにはできても、見識や骨格にはならない。
大体現実は人それぞれにある訳ですから、ギャラリーそれぞれが卑近な例から見つければ良い訳ですやん。
Posted by ト at 2010年01月27日 10:37
コメントありがと。

ただ、ムーとはまったく違う次元で起きていることなんだけどなぁ…。
Posted by at 2010年01月27日 10:48
そりゃあ「ムー」の中ではこれはネタですよって感じで寄稿記事とか書かれないでしょ。
それこそ次元が違う大変な事が起こった・起こっている・起ころうとしているんだって扇情するけど、見出しや表紙・雑誌の形態という編集行為を経て提供されるのはネタじゃん。
カルト批判しながら、自身が何か他のカルトめいた言論をしてるかも知れないと気を付けるような事はしないんですか?
Posted by ト at 2010年01月27日 16:18
カルトに心酔する人たちがいて、カルトを操る覚醒した人たちがいる。

…そういうことなんだけども。

それは神秘主義に限らず、イデオロギーの場合もあるし、倫理的な問題もある。

「ムー」も「正論」も、カルトなんだなぁ。(^^;)
それらは、東京スポーツのように自虐・自ギャグ化していないから、危険なんだなぁ。
Posted by at 2010年01月27日 21:23
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