2009年10月10日

クリスタルメディアの難しさ。

crystel_media_02.gif

さて、図を睨んで理解していただけただろうか。

このメディアは、日本の公序良俗からはみ出すようなものかもしれぬ。何故なら、日本において、オリジナルテキストは婉曲的であり、隠喩的なものだから…。

たとえば、石原東京都知事のオリンピック招致に関するコメント。



コペンハーゲンの現場にいると、「オリンピック開催都市決定の裏には、政治的な動きがあったことを感じた」と、発言した。

これは、小説家としての性根を持っている石原氏だからこそ、はっきりと言えたことである。というか、次期開催に向けて東京が再チャレンジするためには、明確にしておかなければならぬことでもあった。

すると、「自分達は五輪憲章に違反していない。と、リオデジャネイロからコメントが出てきた」。

それにつき、石原氏は感想を求められると、「私は一度もリオデジャネイロを批判していない」と。

極めて分かりやすいことなのだが、「リオデジャネイロは語るに堕ちた」のである。



そして、石原氏は、「ODAをちらつかせるとか、今後の日本の都市の五輪招致には、そのような国家の全精力をつぎ込んだ招致活動が重要である」と示唆した。

勿論、「ODAで票を買う」などということがあっていいはずもない。しかし、すべては人間の所作である。「ほのめかす」というレベルで、相手の心を動かすことまで禁止できない。それが現実だろう。



オリジナルテキストは、情報社会の中でデリバリーできない。その欠点を埋めるのが「カード」。カードには第三者評価による主題文と要約文が載っている。ネオジャーナリストが自らの国語力を使って第三者発信する。

その「カード」が、第四者(傍観者)によって評価付けされる。カードは平易な文章で書かれているため、第四者は帰納的読解のための国語力を問われない。




いままで読解力の程度によってコミュニティーが断絶していた。それをカードという「言論の最終モジュール」が越えていくのだ。



勿論、オリジナルテキストについて、一枚のカードが作られるのではない。つくられたカードは、第四者たちの評価タグがついて、流通する。

そして、カードも、評価タグも、カード制作者も、評価者も、オブジェクト的(等価)に扱われる。

これにより、オリジナルコンテンツが、実は、「コンテンツそのもの」が流通しているのではないことが明らかになる。



たとえば、私は送ればせながら、「21世紀少年」を見た。
日本テレビでは、絶賛の嵐と宣伝・広報・番宣する。だが、おかまの評論家は酷評。結局のところ、「コンテンツを見なければ」いいのか悪いのか分からない。

そうした事情が、「コンテンツそのもの」が流通していない。ということ。そして、私は前作をオンエアで見た。
すると、悪くない映画だと思えた。私がカードを書くならば、制作関係者たちのような絶賛のあらしでもなく、オカマの評論家の酷評でもないもの。

私がつくるカードには次のように書かれているだろう…。

ウルトラマンの科学特捜隊の流星バッチを駄菓子屋で買ったり、フラッシャー付きの自転車に乗った世代には、感慨深い作品である。題材の割りに演出や演技に嘘が少ない。佳作である。


勿論、それが主人公たちとほぼ同学年の男性の感想であり、それが一般的なものかどうかは、私がつくったカードが評価されることで決定する。



この夏。私は家族とお台場のガンダムを見た。そして、感動した。

だが、凄さを教室で語った娘は、クラスメートの男子から「ガンダムより、やっぱエバだよね」と言われた。
そして私は、ガンダムファンの大人に、「ガンダムはもっと大きいイメージだったんだけどなぁ…」と言われた。



そのように複数のカードが対照され、統合(インテグレート)されていく。
それがフォークソノミーの実際である。
posted by スポンタ at 07:37| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウェブメソード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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