2009年10月01日

はてぶに久々にブックマークされた…。

その記事は、「みんなというのは、大体4〜5人です」

http://sponta.seesaa.net/article/95476139.html

だった。



2008年05月04日だから、1年以上前の記事である。

読み返してみると、てにをはがおかしく文章としてこなれていない部分がある。とはいえ、おかしいと感じるなら、誤読はないから、過去を繕うような修正はしない。



さて、自分で自分の論旨に納得するのはおもはゆいが、ここで私が気にしているのは、弁証法は逆戻りできないこと。

私たちは、弁証法を知性的な方法として親しんできた。だが、アウフヘーベン。は、アウフヘーベンした先の別レイヤーが「進化したものである」という、唯物史観的な妄念が支配している。

そして、1年以上前の私は、「アカデミズムな人たちは、そのような詐術に自らを委ねている」と、指摘する。

*

アカデミズムは、いうまでもなく、固有・特定の価値観であり、ひとつのステークホルダーでしかない。それは、政治・マスコミなどとならぶ偏狭な思想のひとつでしかない。



通信と放送の融合について考えている。

「マスコミの側からの融合」が挫折した今、「通信側からの融合」の近くに私は存在している。
前回同様、私の立場は脆弱で、関係者以前の立場。つまりは、観客に極めて近い。
ならば、観客として一定の客観性を得られるのかといえば、その立場さえ、固有のステークホルダー(利害)・ルサンチマン(怨念)の謗りを免れることはできない。

ならば、どうするか…。

アウフヘーベンなどともっともらしい論理を展開するのではなく、理想を掲げた人たちの社会的な含有率。それこそが融合を円滑にすすめていく、唯一の妥当性のあるやり方ではないだろうか。

少なくとも、通信人たちの社会的な含有率は、マスコミ人よりも高いだろう。ただし、それが通信利用者とは等価ではない。とはいえ、マスコミ利用者(観客)のようにメーカーとユーザーは対立構造ではないのが救いである。



私は弁証法を否定している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95

無名の輩である私が、ギリシアからの伝統を否定して、誰が賛同するのだろうか…。

「放送と通信の融合」に参画する前に、私はアカデミズムな人たちの反発を食らい、退場を余儀なくされる。

そんな危惧を持っている。
posted by スポンタ at 20:18| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウェブメソード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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