2009年03月21日

WOMマーケティング協議会の勉強会の感想。

リアルな会議では、「円滑な議事進行」という目標のために、参加者に「場の空気を読むこと」が求められ、結果として、参加者の「自由な発言」はありえない。…と、私はすでに、オープンなリアル会議の問題点を指摘している。

今回は、『リアルな会議では、「メタ議論」は禁止されている』ことを指摘したい。



メタ議論とは、「議論のための議論」のこと。

一昨日の会議で、司会者や世話人がたびたび言ったのは、『「クチコミの定義」をはじめると、きりがないからやめましょう』。「クチコミの定義」は、メタ議論(レイヤーの違う議論)である。

ネット会社の社長さんは、「ガイドラインを遵守させる対象、効果目標」について、議論すべきである。と問いかけたが、ガ島さんは明確な回答を避けた。これも、メタ議論だったのだろう。

グローバルな会議のフェイズはまたたくまに終了し、4人で行なうローカルな会議が始まった。ローカルな会議には、紙が渡され、「ガイドラインの内容を書け」という。つまり、ここでも、メタな議論は行なわれない。

「会議は朝までできます」「とことん議論しましょう」とアナウンスされるが、「朝まで議論すること」は、その場の空気を読まないことである。事務方で参加されている女子社員の方々の存在を考えれば、良識ある社会人はそんなことはすべきではない。私は、9時を過ぎたところで、別のネット業者氏と退散した。



メタ議論ができないのは、当該争点への重要度を他者との間で共有/共振できないからである。「他者の時間を専有」して、「自らの言論の受け手であることを強いる」ことはマナー違反だろう。相手の興味を確認してからでないと、論をすすめてはならぬ…。

メタ議論ができるのは、「他者の時間を専有しない」、「リソースが限られない」インターネット空間だけ。ナノダ。



さらにいえば、交流掲示板においてさえも、「フラットな編集方針」が行なわれるならば、「メタ議論」はタブーとなる。

つまり、意見/記事が「時間軸において並置される(フラット)」ならば、「突っ込んだ議論」はできない。
もし、意見/記事が、「テーマにおいて重層化される(題名をクリックして対論を開けて見る形)」ならば、「突っ込んだ議論」ができる。メタ議論もできる。


【フラット型】

1.意見A
2.意見B
3.re意見B
4.rere意見B
5.rerere意見B
6.意見C

【ノンフラット型】

1.意見A
2.意見B-re意見B-rere意見B-rerere意見B
3.意見C


上記を見れば、フラットなBoard(掲示板)の場合、意見Bのコメントが多出るすれば、「意見Bの相対的価値」は上がる。
ノンフラットでは、「発言回数」は多くても、「言論の重要度と無関係」な印象になる。


つまり、フラット型の場合は、当該争点の「相対的重要度を上げるために多数のコメントをする」というコメント者が現れる。粘着系。ということだろう。

しかし、ノンフラットの場合は、コメントが増えれば増えるほど、深層化していくので、興味のない人にとって、プルの情報である割合が高くなる。これなら、メタ議論も提出できぬことはない。

フラットは理想のひとつであるにしても、それが実効的かどうかは覚束ない。

さらにいえば、フラットは原理主義との親和性が高い。




私は、オーマイニュースやライブドアパブリックジャーナリズムのとき、「フラットという理想/幻想」が「自由闊達な議論を阻害する」と指摘している。その指摘に対する主宰者たちの反論は、「私はITに詳しくない」というものだった。今回は、そのような言い訳ができない人達が主宰している。
IT関係の仕事をしている人、インターネットを知らないことを言い訳することができない人達。ならば、そのような方法があるにも関わらず、「それをあえて選択しない」ことを理解しているはずである。

今回のローカルな会議で、私は「フラット幻想」に他の参加者に理解を求めたかったのだが、これも「メタ議論」であり、「フラット幻想が結果として、個を孤立させる」と、破断的に指摘するに留めた。ここでトーマス・フリードマンについて論じることもできぬ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88%E5%8C%96%E3%81%99%E3%82%8B%E4%B8%96%E7%95%8C

再度、指摘するならば、「フラット化する世界」とは、アメリカ覇権主義が永続するために、「アメリカ/白人/英語的世界以外」は「フラット化」させることにより、「無力化」させてしまえ。という傲慢な論理である。それは、「平等幻想」を元に、自己肯定化されている。

そのような議論は、まさにメタ議論であり、ローカルな会議であっても、リアルな場では行なうことはできない。



WOMJの第十回の勉強会において、「何が行なわれたか」よりも、「何が行なわれなかった」かを知ることが重要と考え、今回の記事を書いている。

当事者を含めて、ご参考にしていただければ幸いである。



関連記事:

http://yasuyuki.vox.com/library/post/my-2cents-for-womj.html#comments
posted by sponta at 03:44| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | ウェブメソード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
藤代さんはたぶん学生の部活合宿で先輩後輩同期みたいな人脈を築きたいんですよw
それならそれで、そういうのが好きな人に呼掛ければ良いのだけど、奥ゆかしいというかまわりくどいというか目的と手段を違えて倒錯してしまってるから、知らずに色々恨みを買ってそう。
Posted by ト at 2009年03月21日 04:50
きっとそうでしょうね。

今回、リアルガ島さんとリアル徳力さんを見たんだけど、イニシアチブを取る実力や根拠をあまり感じなかった。というのが、実際かなぁ…。

ま、印象評価にすぎないんだけどね。

それに比して、ローカルで議論した人達は、実務家だけあって、それぞれが魅力的でおもしろかった…。

*

そうそう。私のブログの内容は、印象批評をさけるために、形式批評につとめている。

*

やっぱり、印象批評をはじめると、誹謗中傷になりかねないし、思索批評をしても、昔のことなんか、誰も覚えていないだろうし…。

*

コメントありがとうございました。
Posted by at 2009年03月21日 12:46
段落を分けてエントリーの下部に印象を入れるのは、むしろ全体については良い結果を結ぶんじゃないでしょうか?
ジャーナリストの報道に価値基準が入り込まざるえない部分に、扇動や導きの行為者であるのか、単に懸念警告を広く知らしめるのか、重点をどちらに置くのか?といった事がケースバイケースで直面するように、スポンタさんの記述がどういう背景から現れたかある程度表明しておくのはどうでしょう。
(人によっては常に行為者である事を選ぶ人が居るようですが、まぎわらしいので、そういう人はジャーナリストではなく実態として政治家か工作員・運動家である旨、肩書きを変えるべきだと思います)

業界でない非カリスマ式バイラル、或いは顔があろうが無かろうがプロパガンダ・洗脳まで行く、いわば闇のバイラルマーケティングについて、この勉強会はそれが対象外であると考えたのでこの前の考察では軽くしか触れませんでしたが、今日、政党や外国政府・宗教団体も予算を割いてマーケティング・情報戦してるんですよね。
闇のというか、マーケティングのヤバサってのも本当はこう単純に線引きできるブツでもないと思うんで、そのヤバそうなノウハウから光を当てて考察してみるのも価値があるでしょうね。
Posted by ト at 2009年03月21日 22:21
>今日、政党や外国政府・宗教団体も予算を割いてマーケティング・情報戦してるんですよね。
闇のというか、マーケティングのヤバサってのも本当はこう単純に線引きできるブツでもないと思うんで、そのヤバそうなノウハウから光を当てて考察してみるのも価値があるでしょうね。

勿論、そうですよ。
ローカルな議論では、徳力さんがアルファブロガーリストに、元オウム者を入れ続けていることを指摘したけど、みなさんご存知のようでしたね。
ま、ブロガーが評価を得られない理由は、それだけではないというのが、もっぱらだったんだけど、その一つにカルト汚染があることは誰も否定しなかったな。



帰納批評の最後に印象批評を書き込むことで、帰納批評が相対化される。そうだと思う。

ま、書き手としては、最後っ屁のような感じがするんだけど、ま、それもいいかもしれませんね。

ありがとう。
Posted by at 2009年03月22日 05:54
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