2009年03月16日

小説先祖供養_81

役所…。




 横浜の住宅街の中に西区役所はあった。駐車場に車を停め、区役所の門をくぐると、私は申し込み用紙に品川区役所から貰った除籍謄本から福次郎が除籍した本家刈谷平吉の名前と高島町の番地を記入する。五分ほど経つと、戸籍係が書庫から戻ってきた。
「当該番地には、刈谷平吉さんの除籍謄本は見当たらないんですが」
「おかしいですね。昨日、電話で問い合わせたら、こちらにあるっていうから、わざわざ東京からやって来たんです」
「少々お待ちください」
 私の申し出に、職員はもう一度調べに書庫に入っていった。それからまた五分経った頃、ようやく刈谷平吉の除籍謄本が出てきた。
 刈谷平吉の本籍地は横浜市西戸部町。高島八丁目で調べていたのでは見つかるはずはない。高島町八丁目を調べていて、西戸部町の戸籍が見つかったということは、転籍元と転籍先がそれほど離れていなかったからなのではないか。
「大正十二年九月一日火災ニ罹リ滅失ニ付大正十二年十二月二十六日本戸籍ヲ再生ス」
 大正十二年九月一日、関東大震災が起きている。横浜市役所は、関東大震災で消失したのだろう。消失した戸籍簿を再生するために、戸籍係が聞き書きをして、戸籍を新たに作ったのが、その時の暮れの十二月二十六日なのだ。
「叔父、刈谷福次郎、安政三年十月二十七日生、刈谷平七、ニ男。東京府荏原郡大井町ニ分家届出。明治四十年二月二十三日、大井町戸籍吏不詳。受付年月日不詳。送付除籍」
 福次郎に関する記載は簡素なものだった。
「やっぱり浜月家のことは載ってないわね」
「分家したのが、戸籍が燃える十六年前なんだから、戸籍に名前が載っているだけでもありがたいと思わなくっちゃ」
「でも、福次郎さんの実家の戸籍もなんだか複雑そうね」
 刈谷平吉は明治三年生まれで、彼が十二歳の明治十五年に祖父の平七から家督を相続し戸主となっている。祖父から孫へ家督が相続された理由は、平吉の父・清吉が早世したことが原因だ。成人していない平吉を戸主にするにあたり、後継人として叔父の福次郎を立てた。そのため、福次郎は養子先の浜月家から戻らなければならなかったのかもしれない。しかし、不可解なのは平吉の母の欄が空白なこと。そして、平吉と福次郎が本籍を同じにしていた高島町の住所が、平吉の妻になる田坂キンの実家と同じであり、平吉はキンと二児をもうけた後に、キンと入籍していることである。平吉は若い頃に放蕩して、キンの家に居候を決め込んでいたのか。平吉とキンが婚姻届を出し、二児が嫡出子となった翌年、福次郎は分家している。放蕩した平吉も結婚したから、これで大丈夫だと福次郎は思い、大井町に分家したのか。否、平吉は昭和十八年に亡くなっているのに、昭和五年に養子になった妻の父は平吉の存在すら知らなかった。ならば、平吉は結婚を機会に福次郎を厄介ばらいし、以後、絶縁状態になったのだろう。
 でなければ、後見人といえば親代わりである。親ともいえる福次郎の法事や墓参りに平吉が大井町の刈谷家へ顔を出し、在りし日の福次郎の話から浜月家の経緯の情報が、妻の両親にもたらされていただろう。
 人は出来れば、自分の人生や出自を取り繕ったり、飾り立てたいものだ。だから、お上に提出する戸籍簿には、恥ずかしい部分はなるべく載せたくなかったに違いない。だが、破綻のないようにいくつかの経緯を差し引いて役場に提出したにもかかわらず、不可解な部分ができてしまう。
 妻の父・光晴の実家と養子先の住所が同じこと。そして、祖父福次郎の実家の住所と戸主平吉の内縁の妻の住所が同じこと。除籍謄本がみせたふたつの事実は、明治、大正、昭和と年号は変わっても、同じような因縁の力に翻弄された刈谷家の人たちの生き様を表現している。
 私は、その不思議な力を感じないではいられない。だが、その力は私に何を伝えようとして、そして、何をしろというのか。いたたまれない思いだけが私を捉えていた。
posted by スポンタ at 11:28| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・先祖供養 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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