2009年02月27日

ドラッカーは「傍観者の時代」と言ったが、日本こそ傍観者の国である。


…いやぁ、レンダリングと作品のプリントをしながらブログを書いているのだが、短く指摘する。

企業が不祥事を起こしたとき、「世の中をお騒がせいたしまして…」と、反省のコメントをするのは、to 傍観者/Outsiderに対してである。勿論、記者への「どうぞ、お手柔らかに」との意図もあるが、実害者/被害者に対してではないことは明らかだ。。それが謝罪の第一に来る…。

常套句としては、「世の中をお騒がせしたことをお詫びしますとともに、被害者および関係者の皆様に…」と、続けるところを見ると、被害者は二の次。

手紙のマナーでは、謝罪の手紙には季節の挨拶を冒頭にしないことを思えば、理解できるかもしれない。

まさに、日本社会は、傍観者を気にする人達で構成されている。だから「傍観者の国」。



万国公法は、「戦乱がつづくヨーロッパ国家間の関係調整のための法律」でしかないが、坂本竜馬らは、それを正義の法典として鵜呑みにした。日本人には、そう勘違いする呑気さがある。と、西尾幹二氏は「国民の歴史」で指摘する。

考えてみれば、アメリカ、アフリカ、アジアで植民地の獲得競争をしているのに、ヨーロッパでは隣国同士であることは奇異。ここに、ヨーロッパでは戦争をしない。という関係調整のための二国間条約があり、それらが発展して多国間で締結されるようになり、結果、実定法として認められるようになったのだろう…。



日本において、戦争は武士の名誉を守るための戦いであり、怨念信仰がある日本では、死者/敗者の祟りを恐れ、暴力はどこかで歯止めがかかる。
ヨーロッパでは、「法律」が「戦争という暴力を肯定し」、世界への侵略戦争は拡大一方だったが、日本では戦争にまつわる「儀式」が、「戦争という暴力のエスカレートを阻んだ」。
戦いの前に名乗りをあげる。敗者の首を取る。これらは、無秩序な暴力を許さない。日本では、ムッソリーニの遺骸が辱められるようなことは起きない…。



正義とは、「当事者の正義」のことではない。ほとんどの場合、「当事者の正義」は「利害」という言葉で代用される。そして、傍観者に感じられるものこそ、「正義」の正体だろう。

…「正義」という言葉に騙されてはいけない。



薬事法について、利害関係者たちだけの議論が厚生労働省あたりで行なわれている…。
ユーザーが参加しない会議に妥当性はない…。

…そして、PPPも。

ヨーロッパには、「利害関係調整のためのルールづくり」という長い伝統がある。それは、日本の「お天道様が見ている」「正義は必ず勝つ」という考えとは異なる。

ヨーロッパでは、「勝ったものが正義」であり、「勝ったものが正しい」、日本でのように、「正しいから勝つ」などということはありえない。



国際大会で、スキー複合で日本・男子団体が、十数年ぶりに優勝したそうだ。

オリンピックでのルールづくりについて、ヨーロッパの伝統が生かされている。
そこには、「私たちとは異なる思考方法が存在すること」を、私たち日本人は忘れてはならぬ。

オリンピックは国連とは違うのである…。

ただ、「国連が低迷し、サミット会議を創らざるをえなかったこと」を思えば、正義ばかりを追求することも、理想主義に堕し、無為である。


ムズカシイ。
posted by sponta at 11:22| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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