2009年01月12日

The Journal批判:Empowermentできぬなら価値はない。

火曜日にThe Journalの銀座田中塾に参加しようと思っている。参加申請メイルを出したが、返信がない。参加を拒否されたのかもしれないので、当日、電話をしてみようと思っている。

http://www.the-journal.jp/contents/info/2008/12/post_23.html

私をリアルで知る人なら、理解されるだろうが、私は与えられた発言権の中でしか発言しない。理由は、無理矢理発言するのは、感情の発露でしかなく、相手の心に響かないから…。田中塾に参加するとしても、私が意見・質問をするとしても、1分が最大。講師の返答に耳を傾けたい…。

*

アクセス解析では、The Journalへ私が書き込んだコメントからやってくる人も多いので、The Journalの問題点と、あるべき姿を指摘しておく。
その前にThe Journalの財部さんの記事に書いたコメントを採録しておきます。

>『一切の対話は成立していません。是非とも、ご検討ください。』などと書く前にこのサイトがどのような理念で作られたか考え、ルールに則って議論に参加すべきではないでしょうか。

Mitsuru Mr. Naraさま、返信ありがとうございます。ご批判を頂戴できることで、Mitsuru Mr. Nara さんと私の言論の乖離が明確になって嬉しいです。私は、東京在住の中村厚一郎というもので、ソフトバンク新書から共著本も出ているので、匿名者ではありません。

私がここにコメントすることがルール違反ということであれば、そのように明確に処分していただければ、と存じます。私は、既存マスコミ関係者の方々の中に「次世代型ジャーナリズム」に対応できる人達を探しているところです。今回、The Journalがウェブ時代に対応するジャーナリズムをイメージできないことが明確ならば、早速退散いたします。

私は対話を模索しているだけです。したがって、対話・議論が成立していない今、ネガティブ系な発言をすることは、対話が絶望的になるので、ここに書き込むことはしません。このサイトに関する感想などは、ブログに記事としておくことにします。
http://www.the-journal.jp/contents/takarabe/2008/12/post_28.html#comments


そして、これがブログの記事…。



私が2005年に参加した市民参加型ジャーナリズム(ライブドア・パブリックジャーナリズム)は、「傍流ジャーナリスト」が構想したものである。これは傍流ジャーナリスト氏が自らのレコンキスタ(失地回復)・立場向上のために、市民を身に纏いながら社会的存在感を増加させようという企みだったと思う。
この構造は、韓国で一時的に成功したオーマイニュースも同様だろう。

では、2009年におけるThe Journalは何か。といえば、私のみるところ、「有名ジャーナリストが斜陽していくテレビジャーナリズムから逃避するためのもの」としか思えない。彼らが誠実でないと感じるのは、テレビジャーナリズムで糊口を潤しているのに、その斜陽な現在において「テレビジャーナリズムの根本的なシステムについて、構造改革のための活動をしていないこと」。である。



The Journalの人達は、「ウェブジャーナリズムは、ジャーナリズム@インターネット」と考えているようだ。
それは、「メディア特性を勘案しないメディア変換」でしかない。レトロスペクティブ(懐古趣味)。

*

情報の電子化とは何かと考えれば分かる。
情報の電子化は紙のデータがディスプレイ上のデータに変わること「だけ」ではない。

情報が電子化されることにより、
「情報の伝達」
「情報の共有」
「情報の加工」
「情報の転用」
「情報の集計」
「情報の統合」が可能になる。


*

主宰氏は、「ファックスや電話で犯行予告がなされたからといって、ファックスや電話の有害性が問われることはない。なのにインターネットは」と憤っていらっしゃる。ならば今後、私の指摘を理解されることも期待できる。

http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2008/12/0809.html

氏の憤慨をスポンタ的に展開すれば、「殺人集団・オウム真理教の布教を、学問の自由の名において許した京都大学に罪はないのか」…。
今後も同様な事件の温床となるだろうが、日本社会はそれを許すのか…。ということになる。
インターネットも京都大学も「国民の合意の上でのシステム改革」が必要なのだ。



The Journalの主宰氏は、『自分たちの記事の「質」』を誇り、『コメント者にも「質」』を求める。
だが、そのような「特定な質・バイアスのかかった質」は、主宰氏個人・そのグループの主観性を表現しているに過ぎない。



私はこのところ、「民主主義事大主義」について考察している。

事大主義という視点で考えると、主宰氏は政党政治事大主義である。また、メンバーには、政策事大主義な人もいるだろう。
だが、多くの国民は、「政局なんてどうでもいい」「今の不況を何とかして」と、訴えている。さらにいえば、「今の不況なんて、生活のレベルを下げるから、どうでもいい。明るい未来をイメージできるようにして」と訴える。巷間のそうした思いをすくい取ったのが、小泉首相の「米百俵」の援用であった。
つまり、不況事大主義さえ、否定されるのが世論・民意。

豊な日本。衣食住の欠乏で死ぬ人はいない。だが、夢・希望がなければいきていけない。マスコミが行なっている、政党政治事大主義・政策事大主義・不況事大主義。それらにどれほどの妥当性があるのか。

「民主主義事大主義」という題目の前に、無数の事大主義に勝ち目はない。



民主主義事大主義に関する典型的な批判を項目として提示し、その反論を次にまとめる。



民主主義事大主義の批判に対する答え。

1. 衆愚批判:日本陸軍といった優秀な人達でも戦争という愚を起こした。故に、衆愚も秀愚もない。ただ、民主主義には時間がかかるので、即断即決とはならぬ。よって、ある固有の時間においては「衆愚」と批判されることもあるだろう。

2. 非専門家批判:専門家といっても当該案件について第三者に過ぎぬ。ならば、専門家の独断によっては、あるべき解決策は導き出されない。「専門家の意見」も「多数の意見」の中で対照化されべきだ。
癌の専門医であっても、癌を宣告された素人の患者が「死にのもの狂い」で勉強した知識には勝てぬ。勿論、「当事者の意見」も「専門家の意見」によって対照化されるべきだ。

3. 国語力批判:国語力で発言内容や発信者を鑑別するのは浅薄である。私たちは、雪印の腐敗のとき、西宮冷蔵社長の国語力を批判しただろうか。事件や事故の目撃者に、その国語力を持ってして発言権を制限するだろうか。The Journalのコメント欄において、麻生首相の国語力の欠如を批判し、コメント同胞に誤変換さえ許さないと発言する人がいるが、もっての他。論外である。

4. 責任欠如批判:当事者であろうと、発信者であろうと、誰も過去に戻って修正することはできないのだから、誰も責任などとれないのである。法治国家の日本で裁判があり、多額の損害賠償金を請求する裁判がある。だが、経済的に行き詰って犯罪を犯した人間が数千万などという大金を支払えるはずもない。日本の司法はそういう現実を見て見ぬふりをしている。イスラム圏の裁判は西洋的なシステムとは異なっており、責任に重点はおかれていない…。

5. トレーサビリティー欠如批判:発信者のトレーサビリティ(コンテンツの出自を突き止められること)を求めて実名発信に固着する人たちがいる。だが、発信された言論の価値を発信者に求めることは無意味である。発信された情報を受けるかどうかは受信者にある。つまり、送りつけられたプレゼントを食べるか食べないかは受信者次第。「お隣さんがくれた余りものオカズ」を重用する人もいるだろうし、宅配ピザを重用する人もいるだろう。だが、どちらが美味しいかどうかは、受信者次第。発信者の属性と何らかの関数があるだろうが、決定的な要因とはならない。タグというメタコンテンツ(副次的・付属的情報)が、関連づけられていれば、発信者とのトレーサビリティーの価値は相対的に低下する。
つまり、新製品の吟味において重要なのは、メーカーのコメントではなく、ユーザーの感想である。何故なら、メーカーのコメントはバイラル(発信者の利害に毒されている)だからだ。


すべては民主主義の名において、等価の発信者の意見として、集団の中で対照化された上で吟味される。
唯一の欠点は「民主主義には時間がかかる」こと。だが、それも、内容を吟味するのではなく、決定者を決定すればいい。

「お笑いレッドカーペット」で、最優秀レッドカーペット賞を選出するのと同じ方法だ。



では、ウェブ・ジャーナリズムはどのような形をイメージすればいいのか。1年ほど前に書いた私のノートには次のようにある。

市井知が集まることでフォーカスが呆けるようなシステムは、ウェブ2.0的ではない。

あるべきは、市井知が集まることによってフォーカスが定まり、社会的影響力やパワーを行使できるシステムだ。


具体的には、次のようにある。

Linus : Open   +  IBM : Sponsered, Integrade, Authorize, Publishing

YouTube : Open   +  My Space : Embed, Publishing


リナックスとユーチューブの成功について考察したものだ。
星飛雄馬の大リーグボール2号は、魔送球を縦に変化させただけでは成立しない。そういうこと。

ただ、The Journalについては、魔送球の縦の変化とも言える「オープン性すら否定」している。
ナントモハヤである。

追記:
The Journalにおいて、二木氏が輝いて見えるのは、彼の論理が他の事大主義を否定しないから。夕刊紙記者の平衡感覚のなせる技だろう…。
posted by スポンタ at 10:37| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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