だが、そうではない。私は、「民主主義事大主義」者である。映画学校を出て映像の道に進んだ私が、50歳直前の今、民主主義を唱えている。人生とは不思議なものだ…。
民主主義事大主義とは、「民主主義を過大評価すること」。そして、民主主義事大主義論者とは、「民主主義を第一に考え」「何事においても、民主主義のプライオリティーを優先する」人のことだろう。
インターネットで民主主義。その道筋について、思索している…。
☆
では何故、私は民主主義事大主義者となったのか。
あけすけに物を言ってしまうと、「民主主義事大主義」が最強だからだ。勿論、「民主主義事大主義」において、私という個の利益は追求されない。だが、どんな場合にも、「民主主義事大主義」はオールマイティーといってよい程の圧倒的な力を持っている。だから、半世紀を生きてきた私は、「映像事大主義」「作品事大主義」を取り下げ、「民主主義事大主義」に従うことにした。
☆
考えてみれば、世の中にはさまざまな事大主義がある…。
テレビ界には、視聴率事大主義が満ちている。「番組の内容はどうでもいい。視聴率がよければ…」という立場に、番組内容事大主義者は勝てない。
国会には、政党政治事大主義が満ちている。政治資金は政党助成金によって成り立っている。だから、議員単位では政治家の経済活動は頓挫する。ここでは、政党政治事大主義がまかり通る。
首相の施策よりも、国語的間違いを指摘するテレビ局がある。これは娯楽事大主義・ゴシップ事大主義だろう。国語的な間違いなど、事務官・秘書が直せばいいだけのこと。このブログにおける私の国語的な誤りなど、「担当編集者の不在」を表現しているにすぎない。
速報事大主義というのもあるだろう。有名人が死んだことなど、知り合いでなければ知る必要も無い。だが、番組途中にテロップが流れる。「すぐ知ることに価値もないこと」を速報する。そんな馬鹿げたことがテレビで行なわれる。北京で金メダルを取った直後の選手に、「次のロンドンを目指しますか?」と尋ねるのもその類。
警察事大主義というのもあるだろう。松本サリン事件のとき、河野さんを犯人にしたてあげたのはこれ。「農薬や写真材料からサリンは合成できない」という大学で専門教育を受けた化学者ならば、当然の理屈が警察事大主義によって敗北する。
そういえば、JANJANの市民記者イベントのとき、沖縄の新聞人が「農薬や写真材料からサリンを合成できぬ」ことを知り、記事にすることを思い立ったが、中央におもねって記事化できなかったという。
これなどは、科学事大主義が警察事大主義に負けた。ということになろう。賢明な諸氏は理解するだろうが、「科学もひとつの仮説に過ぎない」。あまりに大きな物語・体系化されたものだから、否定することは厄介だが、基本的には、宗教事大主義と対峙するものだろう。
だから、先進国アメリカでさえ、「公立学校で進化論を教えたがらない教員が存在」して、裁判になる…。
もっとも、「卒業式に君が代を歌いたがらない日本の教員」よりもまし。宗教事大主義と科学事大主義は交わらない価値観のもとにあり勝負がつかないが、自虐史観事大主義は客観事大主義に対して勝ち目は殆どない…。
蛇足気味に言えば、「今の科学」を疑ってみることこそ、最も「科学的」な生き方である。
☆
何故、こんなことを書いているか。
理由は明らかである。
私たちは議論において、真実性・妥当性・敷衍性を争っているようなふりをしているが、実は、それぞれの価値観を戦わせているに過ぎない。価値観は同一軸にあるとは限らない。否、ほとんどの場合、三次元空間にある交わらない2本の直線だったりする。
つまりは、「銀座通りのウンコと畦道のウンコ」。
銀座通りのウンコは大騒動を巻き起こすが、田圃の畦道のウンコは誰も相手にしない。
それはウンコがカレーであっても同じ…。
つーことである。
ウンコかどうかという真実性は、それが、その場における重要度によって「問われる場合もある」し「問われない場合」もあるのだ。
2003年からスポンタ、2007年にスポンタ中村になりました。real nameは中村厚一郎です。



