http://d.hatena.ne.jp/satohhide/20081202/1228228637#c
氏の記事を私なりに解釈すれば、「個の主観によって世の中は成り立っているから、全体という概念は幻想である」…。仰るとおり。だが、全体がないのかといえば、全体はある。
ただし、全体とはwholeではない。全体はmajorityである。
池田先生の言論は理論なので、全体という語をつかっていらっしゃるが、厳密にいえば、民主主義は全体主義ではなく、「最大個の最大幸福」を目指す。
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「全体最適のパラドックス」の記事にコメントした。
言及ありがとうございます。
「全体最適化」が「個人最適化」に通じる社会。
「個人最適化」で「全体最適化」が達成される社会。
それがインターネットで実現できる。(スポンタ)
何でいきなりインターネットなのか、よく分からないけれど、そんな社会絶対錯覚だよ。(satohhideさん)
そうですよね。私のブログを通読している人でなければ分からないでしょうね。
世の中は主観によって成り立っている。だから、客観なんてありえない。全体という認識は主観によって成立するから、主観の主である局所の住人の虜になる。ただ、世の中には主観しかなく、客観はないのか…。と、いえば、味覚に個人差があるといっても、評判のいい店というのは存在して、多数の主観を統合した形で、総意・客観というのは事実上存在する。
そして、多数の主観を総合・統合するメディアとしてインターネットがある。いままでは、権力のある個が全体を構想していたが、インターネットがある時代ならば、複数の個の相対として、全体が誕生できる。
そのように考えています。スポンタとネットシンポ、スポンタとアルゴリズムの時代。などの記事を読んでいただければ、参考になるかもしれません。
ありがとうございました。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rls=GGLJ%2CGGLJ%3A2006-23%2CGGLJ%3Aja&q=%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3&lr=
全体をイメージするとき、それが全体主義にならぬようにする。それが、多様な・多層なレイヤーを意識すること。システム化することである。
私が、「小説先祖供養」というシリーズをインターネットにアップしつづけているのも、唯物論が相対化・対照化されぬ現実を憂いているからである。「日本のたてまえ社会」では、非唯物論は「物語」「とんでも…」として、扱われる。そこで、原理的な非唯物論者は、オウム真理教のような暴発を起こしたり、無防備な人達を洗脳し日常生活から離脱させ騒動を起こす。
世の中には、唯物論者と非唯物論者がいる。それが現実であり、どちらか一つになることなどない。幽霊を見える人もいるし、幽霊が見えない人もいる。現実しか見えない人もいるし、現実を信じない人もいる。そういうさまざまなレイヤー・対立軸が存在する。対立軸の中でのバリューも多様だろうし、対立軸どうしも様々な対立軸・評価軸に巻き込まれている。
そういうものが、総覧でき・一覧でき・対照できる。それがインターネットが可能にしたことである。
【ネットウォッチの最新記事】
2003年からスポンタ、2007年にスポンタ中村になりました。real nameは中村厚一郎です。



