2008年11月26日

池田先生。それは違います。

池田信夫先生は、「意味づけ」「物語づくり」を批判している。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/3de3c4b8b36bf0245bacf46a81f7bc8a

だが、それは、「物語はなかった」という物語づくりであり、「意味はない」という意味づけでしかない。
このようなメディアの桎梏を超えるには、「多様な意味づけ」、「さまざまな物語」を作るほかない。


物語をつくることは悪いことではない。ただ、ひとつの物語でしか語らないことがいけないのだ。

佐々木俊尚氏が教えてくれた「フォークソノミー(民衆的分類)」とは、そういうことだ。



高級官僚OBの殺傷犯は、過去の怨念を晴らしたと自白しているという。だが、それから何を読み取るか。それは、私たちの自由である。過去の愛玩動物に関わる動機が怨念が動機のすべてであり、年金問題はないというのなら、それこそ物語である。

犯人が分からないとき、テレビコメンターである大沢弁護士は、「大義」なる語を出した。犯人の行動は、犯行によって完結しているなら、犯行声明がなくとも、天誅であろう。そして、大沢弁護士が大義を感じた。それがすべてではないか。

高級官僚が属する役所は、自らの非を一切認めず、反省の声明もしていない。ならば、今後も天誅が続くことが予想できる。


そして、その役所以外の殆どの日本人は、彼らの非を認識している。日本という社会は、謝罪しない人・反省しない人には厳しい。そういうコミュニティーである。



思えば、アルカイダ。
アルカイダは、統率された組織ではなく、ひとつの思想・主張の元に集まった群衆だという。個の動機と集団の動機があっていい。レジスタンスとは、そんなものだろう。

たとえば、伊藤博文を暗殺した犯人。
彼は殺人者でしかなかったのかもしれぬが、かの国の人々は祖国解放の革命家にしたてあげた。行動が先で思想が後でもかまわない。さらにいえば、ベルナルド・ベルトリッチの映画「暗殺のオペラ」の主人公のようなこともある。そして、日本にも虎ノ門事件が…。

革命にも、大義的名目と個人的動機とふたつの側面がある。
そのふたつが収斂していく。それが実行に繋がる。

三島の「金閣寺」を読めばいい。

*

複数の物語があるのは当然のこと。逆にいえば、複数の物語が無いほうが不自然である。


現実とは、群盲象を触る。そんなもの。
ひとつの物語で解釈しようというのが、ファシズムなのだ。そして、ヒューマニズムというファシズムこそが一番恐ろしい。

*

そして、一切の物語をつくらぬこと。一切の意味づけをしないことは、アナキズムでしかない。




池田先生のブログにトラックバックした。
トラックバックが承認されれば、多様な物語を先生が許容されたことになる。そうでなければ、池田先生はインターネット的ではない。


先生にお会いしたとき、「君は構造主義的言論を操るね」と仰られた。ま、私が言論を操っているだけかどうか。閲覧者諸氏は判断して欲しい。
posted by スポンタ at 19:19| 東京 晴れ| Comment(7) | TrackBack(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
その通りだと思います。
突き詰めればどのような物語を作るか、どの物語を私達が受け入れるかが問題となりますね。
ミステリ小説も最近は「動機」を皮肉として扱っている作品が散見されます。やはり動機が世間を納得させるためのものに過ぎないということに気付き始めている人が多くなっているのでしょう。
Posted by murakami at 2008年11月26日 11:12
コメントありがとうございます。いやぁ、本当に、コメントって勇気づけられますねぇー。(^o^)

納得する。という行為は傲慢なのかもしれないんですよね。つまり、何を読み取るか。ということこそ、自己内におけるファッショな行為なんです。

ヒューマニズムって怖い。ヒューマニズムって辛い。なのに、私たちは、ヒューマニズム原理主義の世の中にいる。かといって、池田先生のようにアナキズムに陥るのも…。

ありがとうございました。
Posted by at 2008年11月26日 12:49
こんにちは。私は単純なので…TV・新聞の物語に収束してしまうのではなく、ブログや2chなどの物語も参照しながら、いろいろな物語を得ることによって、自分は実は何も知らないんだなあ、と謙虚になる、そしてその他の物語も自分で想像できるようになる、それがいいのかな、と思います。ただ、物語と事実とは違うものだという自覚は必要でしょうけどね。
Posted by mad at 2008年11月27日 06:44
madさん、コメントありがとうございます。

仰るように、個人にとってはそれでいいと思います。しかし、社会の有様としては、一つの事象に対する複数の物語の存在が一般的に提示されるべき。と、思うのです。

つまり、サヨク者からみた戦後史。と、ウヨク者から見た戦後史が、等価で提示される。それに対する評価・是認する人達の割合を提示すべきだと思うのです。
村山談話は村山談話でしかない。政府が統一見解を示すことなど、所詮無理なのです。

*

たとえば改憲。平和憲法を守ろうという人達が、自説を主張するばかりで、国民投票をしようとしない。そういうのって、卑怯だと思うのです。

多数派は多数派の立場で謙虚になり、少数派も自らの立場の中で存在感を示す。そういうことがあるべきじゃないのかなぁ…。

コメントありがとうございました。
Posted by at 2008年11月27日 08:03
一番重要なことは、事実とは当事者のつくる物語。ということなんです。

ロス疑惑氏を想起すれば、理解していただけるでしょうか。
Posted by at 2008年11月27日 08:35
当事者のつくる物語、あ、そうですね。完全にその思考が抜け落ちていました。説明でよくわかりました。
Posted by mad at 2008年11月28日 06:51
コメントありがとうございました。

あなたのコメントによって、私の頭の中身もフォーカスされていきました。

対話って素晴らしいですね。

ありがとうございました。
Posted by at 2008年11月28日 10:25
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