2008年08月12日

ドラッカー「傍観者の時代」を読む。

傍観者とは、Bystanderである。裏表紙には次のようにある。

傍観者は舞台の上にいるにはいるが、しかし役者ではない。傍観者は聴衆ですからない。芝居とそれを演じる役者の命運は聴衆に左右される。が、傍観者の反応は彼以外の誰にも効果を及ぼさない。とはいうものの、傍観者は劇場の消防係にも多分に類似して、舞台の袖に経って役者や聴衆が気づかずに見過ごすものを見る。なかんずく、彼は、役者や聴衆とは異なる見方で見る。


この本は、1979年に書かれている。

傍観者とは、私の言論でいう第四者だろう。


ドラッカーは、「メディアはメッセージだ」と主張したマクルーハンと親交があり、タイムやライフで知られる雑誌王ヘンリー・ルースとも少なからぬ関わりがあり、GMの伝説的経営者アルフレッド・スローンを取材した。

インターネットのない1979年において、ドラッカーはすでに新聞というビジネスモデルの悲劇的宿命を指摘している。曰く、紙に印刷して配達するコストは乱費である。と。
当時はテレビのみ。電子ペーパーはなかったが、その誕生も予測している。彼は、マクルーハンの言うようなテレビ万能の時代はこない。と、達見している。

テレビは、at a glance(ちょっと見)のメディアである。それが感情を操ることに適しているが、それが欠点でもある。

一方、インターネットは、プリントアウトすれば、熟考・熟慮も可能なメディア。感情を操られるかどうかは、ユーザーに由来する。


ナチスは、テレビ放送で国民の感情を操った。
感情を操られたことに反省したドイツでは、戦後、不条理劇というムーブメントが発生した。

2008年の日本では、テレビで権力者のアジテーションと少数者の陰謀が巣食っている。国民はコマーシャルに踊らされて商品を買い、マスコミの情報に踊らされて投票所に赴く。
日本の状況は戦争のように突然終わることはない。結果、現状の歪曲を知る人達は、2ちゃんねるなどの場に言論を求める。

ドイツの戦後は、不条理劇などとシラケルことによって、煽動から自らを遠ざけようとした。
2008年の日本人は、冷静に現実を論じることによって、煽動から逃れようとしている。

2ちゃんねるは煽動のメディアではない。
如何なる煽動も、根拠を示すことが求められる。

2ちゃんねるの本質はテンプレートにあるのだが、その理性を既存メディアたちは語りたがらない…。


2ちゃんねる言論における批判の対象に、大手広告代理店、特定宗教団体、特定人権擁護団体などが代表されることの意味は、そういうこと。

多数者・権力者の横暴と少数者の陰謀。

それらが、個の意見の総和であるはずの国民の総意を歪めている…。




私は、ドラッカーを尊敬し、彼の言論のひとつひとつに合点する。
そして、私の名声とはかけ離れた人生とドラッカーの人生を対照してみるが、なんとも、悲しい限りである。



ドラッカーが言論してこなかったもの・言論できなかったものは何か。

それは、彼が経験できなかったインターネットが提出する言論の非パッケージ性(2次加工性)である。


我々日本人はドラッカーに多くのことを学ぶことができる。
だが、ドラッカーとて、「言論の非パッケージ性」については、思いもよらぬことだったのではないか…。

私が何故、無名の人生を歩んできたのか。そのことの意味が、この21世紀の言論における最大の問題を扱う資格を私に与えている。

私は、無名であることを感謝しなければならぬ…。
posted by sponta at 06:06| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウェブメソード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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