2008年07月28日

オーマイニュース元編集長・元木氏との対論。


さて、とある研究会で、オーマイニュースの元木・元社長と対談ができぬものかと、オファーを出してみた。
以下は、その文面である。



お世話になっております。スポンタ中村です。

私の研究領野に近い内容ですので、ぜひとも参加したいと思います。とはいえ、元木さんが辞められたオーマイニュースやJANJANとの乖離は深く、私が参加していいものなのか…。とも、考えます。

それは、「特権者としての編集者」を認めるか、否か。ということです。

現実の市民参加型ジャーナリズムは、特権者としての編集者を守るために、読者とのインタラクティブ性を失っている。それは、変態報道に揺れる毎日新聞と根本的には同じです。
私は、編集者の特権の源泉である「国語力」についても否定しています。つまり、編集者が国語力で市民記者を鑑別する。そのことに妥当性はない。編集者は市民記者の国語力を補完し、発信すればいいだけのこと…。

また、市民参加型ジャーナリズムが普及しないのは、市民記者に発信したい人達(プレイヤー)を想定していること。市民とは基本的に受信者(オーディエンス)であり、彼らにプレイヤーを求めるならば、極めてバイアスのかかった人種しか集まらないことは自明なのに…。
つまり、インターネットで起きているのは、記事のパッケージ性(独立性)が崩れ、記事本体(コンテンツ)と評価タグ(評価度、感想コメント)が等価で入り乱れること。そのような状況に、ネット由来のネットメディアは対応しつつあるのに、旧メディア由来の市民参加型ジャーナリズムは記事のパッケージ性に固執するために対応できない。



私としては、オーマイニュースがどのようにダメだったのか。それについて聞きたい気持ちは多いのですが、それが今後のネット言論に繋がっていかないのだとすると、虚無感を感じざるを得ません。
もし、可能ならば、ライブドアPJの挫折者である私と、元木さんのパネルディスカッションができれば極めて建設的と考えますが、どうでしょうか。


特権者としての編集者。

これは、毎日新聞の変態報道にも関わる問題。
つまり、双方向メディアの時代に、発信者の特権は奪われていく。その現実に逆らっても、最終的にはネット言論(流動的・匿名者たちの言論)に屈する。



研究会のテーマは、社長辞任後の氏のライフワークでもある「ウエブ時代の若手編集者や編集の仕事を志す学生を主な対象に」した「編集者の学校」がテーマで、その枠組みで「紙媒体&ウエブ媒体での編集者の仕事」を中心に、「ジャーナリズム」や「市民参加のあり方」等。という。

双方向コミュニケーションの中で、メディアが相対的になり、特権者として編集者が機能しない時代、いかに処すべきか。そのことをテーマに論じてみたいのだが…。
posted by スポンタ at 11:26| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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