2020年6月に、ドラマ・映画の評価基準の最終的な結論に到達した。以来、このブログで発表するとともに、さまざまな接触を試みたが、不発に終わり、精神的に落ち込んでいる。
あるサイトの方は、
・「それって、証明できていないですよね」
と。
それは間違いではないが、文系の学問の至言・法則は、すべて証明できない。
つか、理系の学問でも、「例外のない法則は、間違っている」とか。
つまりは、
・証明・エビデンスといっても、(一定の条件を満たすだけであって)虚構に過ぎない。
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類証になるが・・・、
巷間、「責任をとる・とらぬ」などと話題になるが、「起きてしまったこと」に責任などとれない。せいぜいが「賠償する」程度。だが、日本の法制度は「不完全な賠償」。たとえば、「経済的に困窮して犯罪をおかした」人に、過料を求めても、「支払われる」可能性はゼロに等しい。法秩序は、「仇討ち」を無くすために普及したのであれば、「仇討ちの権利を奪取した国家」は、・加害者&被害者の関係を・被害者と国の関係。そして、加害者と国の関係に、変換しなければならぬ。だが、国家は、「加害者に代わって、過料を被害者に支払うこと」はしない。つまり、日本の法秩序において、責任が果たされないことが是認されている。
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わが師・松本成二先生は「日本語の科学的研究」という書をなしたが、あくまでも「科学的」であって、「科学」ではない。名著との評判はあるが、「それって、証明されていますか?」の問いに答えないのである。
私の「OZ理論(ドラマ・映画の評価基準)」もその類。
ここに、国民的放送作家たる秋元康氏が企画した「共演NG」のシナリオ・構成に欠陥があると指摘しても、それって、
・あなたの意見でしょ・・・
に反発できない。
だが、古代ギリシアのアリストテレスや、フランス啓蒙時代のディドロに、同じ言葉を投げかけたら、無知蒙昧と嘲笑される。
「OZ理論」は、アリストテレスとディドロの考察を合体・展開したものであって、私のオリジナルではない。
そもそも、近代主観主義のように「主観を誇る」ことを私は意図しない。
そもそも、近代主観主義のように「主観を誇る」ことを私は意図しない。
だが、世の中は近代主観主義にあふれていて、何かを言うと、
・それはあなたの意見。
・そのエビデンスは?
・証明されているの?
との反駁を食らう。そして、たとえ間違っている言論でも、
・発信者が有名なら、流通する。
これが怖い。
「共演NG」もその類。