OZ理論を結論するに至ったのは、それまでの「評価・吟味ツール」だと、例外が多すぎることだった。
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2016年頃、TBS演出家の鴨下信一氏の、
・最近のドラマにはアンタゴニスト(対立関係)が足りない。
なる言葉を信じて、
・ドラマの最重要要素は、〈対立〉
として、「評価ツール」を構想した。
だが、それだと、昭和の名シナリオライター・向田邦子の作品を評価できない。
向田邦子のホームドラマでも、
・娘と父親の〈対立〉
は存在する。だが、それが「親子喧嘩」「家出」などの対決に発展することはない。
だが、昭和の大衆はドラマの最高峰として向田作品の「阿修羅のごとく」「あ・うん」などを傑作として評価した。
西洋のドラマは「親子の対立・断絶」だとしても、日本のドラマは「親子の忖度・思いやり」。
それにより〈自主性〉を発揮しないとしても、〈忖度・思いやり〉があれば、主人公の資格を持つ。
「OZ理論」では、それを〈感情〉として重要項目とした。
西洋では「対立・対決」がドラマの最重要要素だが、日本ではそうではない。
「平家物語」は、源平の合戦の物語ではなく、「奢る平家も久しからず」の無常の物語なのだ。
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鴨下信一氏は「岸辺のアルバム」は山田太一氏の脚本。夫の会社のあくどい仕事・妻の不倫・娘の不純異性交遊など、家庭崩壊ぎりぎりの「刺激の強い」家族を描いている。
一方、向田邦子作品の演出は久世光彦氏。
不倫・不貞もあるが、「家族の求心力」が失われることはない。比較的「刺激度の低い」家庭。
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「岸辺のアルバム」、向田作品。どちらかを否定するような「評価ツール」ではマズい。
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「積み木崩し」には、「積み木崩し」のおもしろさ。「サザエさん」には、「サザエさん」のおもしろさがあるのであって、
「積み木崩し」の娘が「常軌を逸している」と、「サザエさん」の(一切、両親に反逆しない)わかめちゃんと比べるのは、不合理だ。
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OZ理論は、小津安二郎監督の
・映画はアクシデントではない。ドラマだ。
※ ドラマとは、人間たちの「対決・対立・葛藤・恋情」
を
・映画&ドラマの大切な要素は、〈ドラマ成分〉と〈非ドラマ成分〉
と読み替えたもの。
つまり、映画監督には、
・小津安二郎派
・反・小津安二郎派
のふたつが存在する。
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同様に、シナリオ・ドラマには、
・刺激度の高いドラマ
・刺激度の低いドラマ
のふたつが存在する。
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放送大学・美学芸術学の青山昌文教授は、
・叙事詩
・叙情詩
という二つの分類を重要視する。
・叙事詩: 第三者による客観的な記述(歴史作家の歴史記述)= 間接話法
・叙情詩: 当事者によるドラマ。演劇 = 直接話法。
青山教授の論からいえば、〈ドラマ〉は、叙情詩でなければならぬ。
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先日「史上最大の作戦」を観た。
連合軍のノルマンジー上陸作戦を再現した映画である。
だが、この映画は、きわめて「叙事詩」的である。
・「こんなことがありました」= 叙事詩的。
・「こんな人がいました(感情移入)」= 叙情詩的。
ということであって、本来なら、叙事詩的作品はあってはならないが、「史上最大の作戦」は、叙事詩的でありながら、映画として成立している。
たしかに、「主人公に感情移入して、浄化される」ことは無理かもしれない。だが、作品として否定できない。
spontaは、飽きることなく3時間ほどの「史上最大の作戦」を見終わった。
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ゴーストライターとして数本の作品を書くも、シナリオライターとしてデビューできなかったのは、師匠・首藤剛志氏が「銀河英雄伝説」のテレビシリーズを企画の途中で降板したことが影響している。
当時、私淑していた私は、師匠に従って、原作からシノプシス(あらすじ)を何本か書いた。
平行して、原作ファンのプロデューサーとの打ち合わせを重ねていた師匠は、
・30分番組に150人ものキャラクターを登場させるのは無理。
と、プロデューサーと決別した。
私は、プロデューサーと師匠の打ち合わせに参加したことはない。だが、今思えば、
ドラマには、
・「アラビアのロレンス」のような叙情詩的な映画
※ 作品の最初&最後の「主人公のバイクの疾走シーン」をみれば、極めて叙情詩的作品なことが分かる。
もあれば、
・「史上最大の作戦」のような叙事詩的な映画
もある。
「銀河英雄伝説」の企画段階。そんなことを誰かが言えば良かったものを。
デビット・リーンの傑作を持ち出したのは、その脚本家が、師匠のお気に入りだったから・・・。
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