
以下、Wikipediaより。
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【出演】飛車角:鶴田浩二おとよ:佐久間良子宮川:高倉健吉良常:月形龍之介青成瓢吉:梅宮辰夫
小金:加藤嘉
寺兼:村田英雄
おいてけ堀の熊吉:曽根晴美
奈良平:水島道太郎
杉田清七:田中春男
浜勝:山本麟一【あらすじ】大正時代、遊女のおとよと駆け落ちしてきた飛車角は、小金親分の配慮で深川に隠れ住んでいた。小金一家は丈徳組と喧嘩になり、一宿一飯の義理がある飛車角は宮川と熊吉を連れて丈徳を刺し殺す。逃走中に逃げ込んだ庭先で出てきた初老のバクチ打ちの吉良常は「おめえさん、無職(ぶしょく)だね」と事情を聞かずに匿う。義理のためとはいえ人を殺し女房を残していく飛車角の心を慮った吉良常はしょせんヤクザの行く道は赤い着物(囹圄の人となるか)か白い着物(仏になるか)かと渡世の定めを語り、吉良常は親分の忘れ形見である青成瓢吉のことを語る。飛車角は警察に自首して懲役5年を食らい、おとよは小金の弟分の奈良平が預かる。深川不動の夏祭りへ出かけた奈良平とおとよだが、そこで小金が何者かに暗殺される。奈良平の表情で真相を察したおとよは逃げ出し、宮川に匿われる。似通った境遇の2人はやがて結ばれるが、宮川はおとよが飛車角の情婦だと知り青褪める。そこへ飛車角が恩赦で出所するが、迎えに出た吉良常はおとよの事情を話す。おとよを諦めた飛車角は吉良常に誘われ、吉良へ向かう。酒屋の女お千代にも慕われてこの街で平和に暮らす飛車角だが、そこへ宮川とおとよが現れる。飛車角は黙って2人を許した。それからしばらくして、吉良の地の仁吉祭りを巡って吉良常と浜勝が諍いを起こす。飛車角は浜勝に祭りには指一本触れないよう念書を取り、浜勝も飛車角の男意気に感服する。そこへ熊吉がやってきて、小金暗殺の真相を知った宮川が単身で奈良平に殴りこんで殺されたことを告げる。飛車角は引き止めるお千代を振り切って東京へ戻る。奈良平は飛車角を迎え撃つために総力を結集する。おとよは泣きながら飛車角を止めるが、振り払って飛車角は言った。「あの世で逢おうぜ」奈良平と手下が待ち構える屋敷へ向かい、飛車角は坂道を登って行った……
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今村昌平の映画学校在学中、佐藤忠男氏の講義を週一で受けていたが、感心したことは一度もない。だが、彼の出世論文が「任侠もの」と、なんとなく覚えていた。
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【佐藤忠男氏(81歳のときの記事)】出版社の方から貴方は何派ですかと問われ、何派なのかと友人のフランス人に聞いてみたところ。ヒューマニズムだと人間派なんだと自分で気付いた。
人生論的であるし、映画による社会学であると 若い映画評論家は社会学の論文として批評してますね。例えば日本のジャンルの一つに任侠映画がある。日本の社会構造の親分子分的な面。そう言ったものを抜きにしては任侠映画は成り立たないわけですよ。日本社会における親分子分的なものと言うのはやくざの世界だけではない。 広く悪い意味ではなく 親方 子方的な社会は広く産業社会から農村まである訳ですよ。歴史的な変化まで調べないと単純にやくざ映画だけを論ずると言うわけにはいかなくなる。だから社会学になってしまう。
映画と出合ったのは4歳 アメリカ映画の「キングコング」が鮮明に覚えている。
淀川長治も小さい頃の映画を鮮明に覚えていると言っている 。
エノケンのドタバタ喜劇、愛染かつら、・・・ 当時はあまり映画を見る事が奨励されていなかった。(戦時中)小学校は戦争の時代
小学校卒業するときに中学に行く時に受験する。
講堂でいきなり校長が出てきて明治天皇の御声を三種朗読して挨拶もせず去って行った14歳で敗戦迎える。
面接の時に出るのだろうと一生懸命覚える事にした。
試験はうまく言ったと思ったら試験に落ちていた 来年もう一度受けようと高等小学校にいく。受験担当の先生からあの学校は愛国主義者で試験成績よりも人格を見ると言う。 校長先生が話をするときに頭を下げるがそれをしないものがいるので、それを落第にすると云うそれを聞いて中学に行くのが嫌になってしまった。
理由を問われて仕方なく少年兵に行くと言った (兵役に行くと言うと当時の親は逆らえなかった)
戦争に負けてどうしようと思っている時に アメリカの映画を見た 若い女性がニューヨークに行く。若い男性が振りかえる その目がやけに爽やか、健康的に見えた 。これを見て文化的に負けたと思った (戦争の背後に有る文化の差)
我々は世界の事を知らなかった それからアメリカ映画を夢中に見るようになる。自分がどれだけ世界を知らないかを痛切に感じた。
「キューリー夫人の映画」。文化の差を痛切に感じる。それを理解するために一生懸命勉強した今から考えるとファンと言うより映画の研究者だった。
鉄道教習所の生徒だったのでパスを貰える。
土曜夜 夜行で東京に来て古本屋に行って映画の文献をあさり、地方では見れない新劇とか観て、夜行でまた帰って月曜の朝に教習所の学校に出席すると言う事をよくやっていましたね(3年間)認められるようになったのが20歳を超えてから(17歳くらいから映画雑誌に投書し始めたが)
鶴見俊輔さんが「思想の世界」 投稿を歓迎すると言っていたのでこれに投稿すると、手紙が来て之ぐらいのものを3つ書けば君はプロとしてやっていけると言われる。これが決定的だった。一般民衆の思想を哲学者が考えたりしている 「任侠について」。
「長谷川信論」 日本にまたたびもののジャンルを創り出した人
「沓掛時次郎」 ウィリアム・S・ハート アメリカの無声映画の1910年代の西部劇の大スター。影響関係がある 原点がある。さらに遡るとヨーロッパの12〜13世紀の騎士道物語が原点であると それがヨーロッパ人にとっての恋愛と言う概念の型がメロドラマに変質してヨーロッパからアメリカに移民してきたときに、西部小説と言うような形になってそれが基本になって 西部劇が生まれる
一貫して有るものは強き者は貴婦人に真心・正義を捧げる。貴婦人に認めてもらい為に正義を行う。ここが重要なポイント。
日本の武士道物語と西洋の騎士道物語は似ていると言われるが、決定的に違うのは、騎士道物語には必ず貴婦人崇拝と言うものが付いて回る恋愛がある。
日本では殿様に忠義を尽くすために女を捨てると言うのが日本の武士道の不動の基本のパターンであって アッこの時に私は軍国少年を脱却できたと思った。
忠義よりも恋愛が大事と言うのは基本なんですよ。
何故日本には忠義の為におんなを捨てると言う観念があるかと言うと、これは儒教ですよね。仏教も多少有るでしょうね
女性差別の観念と言うものがある これはアジア、イスラムから儒教文化圏 それから仏教文化圏を含めて 東西の考え方の違いは恋愛に対する考え方の違いが基本で、それから一生懸命一人で考えた そのためには文学書を読んだり 歴史書をよんだり、心理学、社会学を読んだりしてした。
そこに気が付いたら色んな事が判る気がしてきた。
「任侠について」は自分では幼稚な文章だと思っているが、ただ色んな人が認めて下さったんですが、(23歳) 国鉄を追い出された。何とか映画の仕事はやりたいとは思っていたが 一流大学の人でないと入れない状況だった。
脚本家の道を目指したが、片手間に書いていたものが認められた。大衆映画論者と言われた 鶴見俊輔さんは映画の評論をして哲学者も評論してくれるようにもなった
鶴見さんは偉い人だなと思った 最初に会った時に鶴見さんは「この人は分析的な文章を書く人です」とおっしゃってくれた。
俺は分析的な文章が書けるんだと思いましたね。
大衆映画と言うものは皆にているように見えるけれども、重要なところが違う。それを分析するのが私の仕事だと言う風に自覚しましたね。50年代終わりに評論家の地位を確立した評論を仕事にする 60年を頂点として観客が半分に減る。駄目だと言われ続けてきたが、何とかやっている
撮影所が映画を作っていたが、スターがいてパターンが決まっていた
撮影所がつぶれてパターンが成り立たなくなっていった てんでに作る様になる。
ファンは自分の好きな映画がどれか判らなくなってしまう。映画は益々衰退した。自分で出資者を探して自分の映画を作る様になる。
一本一本の作品が非常にそれぞれ違う作品ができるようになる。そうすると批評家の働き場所となる。
一本一本違うと其れをどこまで分析できるかと言う事が重要になってくる。
政治の映画ができなかったが出てくるようになって 左翼でもいろいろ有るのでその辺を理解しないと、評論できないような時代になってきた。
60年時代にやってきたATG、外国映画もアメリカ、フライス、ドイツ映画しかなかったものが、ポーランド、スエーデン映画とか型にはまらない映画が世界から表れてくる そうなると批評家の仕事は益々重大に成ってきます。批評を書く事に対して力が入ってきましたね
作家の個性が重大になってくる 黒沢明論の単行本を最初に書いた
溝口健二、小津安二郎、今村昌平、等々監督に対してそれぞれ8冊ぐらい書いた 型にはまらない映画がどんどん出てくる
本格的に議論できる時代が来た。
・
結局のところ、佐藤氏が「大衆映画に哲学をからめた」ことが、映画の文学への劣等感を弱めた。
○
佐藤氏の瑕は、
・(卑近な大衆娯楽でしかない)映画と(高尚な学問)哲学を結び付けたこと。
結果、映画関係者のプライドをくすぐったし、(象牙の塔の住人として批判されていた)アカデミストたちを解放した。
しかし、「思索批評が尊ばれる〈近代主観主義の時代〉だからこそ、価値がある。
「ポストモダンの時代」に価値はない。
※
・映画は「映画として評価されるべき」
であって、
・「社会学・哲学」を翻案したもの
として評価されるのは、本筋ではない。
※
同様に、彼を学長にした「横浜映画放送専門学院の末裔」が、アカデミズムに移行しているのは、「ああ、勘違い」である。
○
話を戻そう。
「人生劇場 飛車角」は、東映任侠映画の第一作である。ならば、人気シリーズの本質が作品に現れているはず。
つーことで、鑑賞・分析した。
○
まず、感じたのは、歌詞にもなっている「義理と人情」。
これが分りにくい。映画を通じて解釈できるのは、以下〜
・義理 = 男のプライド
・人情 = 恋情
「義理」というから、生きていくための「しがらみ」と思ってしまう。だが、映画で表現されているのは、
・「男の心意気」(プライド)
と、
・恋人に向けた「恋情」
である。
「高慢と偏見」という小説があるそうだが、「プライドと恋情」とすべきだった。
・鶴田浩二:プライド第一、恋情第二。(だが、心の底では、恋情第一。ここが、カタルシス)
・佐久間良子:恋情第一、しがらみ第二。
これは、王将・坂田三吉と対照できる。
・坂田三吉(勝新太郎):勝負第一、気品第二。(三吉は、終始勝負第一。妻の死でやっと悟る)
・小春(中村玉緒):感謝第一、勝負第二。
・娘(音無美紀子):気品第一、勝負第二。
「プライドと恋情。」。
このふたつがアンビバレンツ(二律背反)になって♂を苦しませる。
これを浄化(解決)させるのは、「死のみ」。
舎弟・高倉健は「無理な出入りをして、死ぬ」。そして、兄貴・鶴田浩二は「無数の敵を前にして、エンドマーク」。傍らには「一緒に死にたい」と心情を吐露する情婦・佐久間良子が侍る。(英雄の死を暗示して、物語は終焉する)
spontaは、
主人公・ヒーロー(男): ♂
主人公・ヒロイン(女): ♀
と記述する。
※
佐藤忠男氏は、武士道と騎士道の違いを「お姫様への忠誠」の有無だという。
・武士道: 男の世界。
・騎士道: お姫様も加わる。
だが、それは「時代劇の世界のこと」である。時代劇はファンタジーであって、騎士道と武士道の違いをそこから図るのは、間違っている。
「カタルシスの浄化(葛藤・矛盾の解放)」を解決することが、ドラマの本質とするとは、そのためのパラダイムが、日本と西欧では異なる。つまり、
・日本: 正義 vs. 主君への忠誠。
・西欧: 女性(姫君)への想い vs. 主君への忠誠。
アンビバレンツ(矛盾・葛藤)を抱えなければ、カタルシス(浄化)は起きない。そのために、西欧のドラマツルギーは「姫君を必要とした」のである。
音楽におけるドミナントモーション(G7 → C )を想起すれば、
アンビバレンツ(葛藤・矛盾) → カタルシス(浄化)= 葛藤・矛盾の解決 → エンドマーク
である。
戦後の日本人は、「ルーシー・ショー」「奥様は魔女」を観て、アメリカの人たちの日常生活に憧れたが、あの世界は、WASPのアッパークラスの日常であって、黒人社会は勿論、エスニックな人たちの貧困生活を捨象している。マーチン・スコセッシ監督「タクシードライバー」を観ていたら、日本人が「アメリカに憧れる」ことはない。つまり、「わんぱくフリッパー」「ギリガン君SOS」は、アメリカのプロバガンダ(洗脳のための作品)だった。三銃士や、アーサー王騎士伝、ロビンフッドを観て、哲学する佐藤氏は、浅薄である。私たち日本人は「忠臣蔵」を愛でてきた。そこには〈主君への忠誠〉と〈切腹〉という自己犠牲があった。それは真実である。だが、西欧において、「十字軍の物語」において、(都合よく)略奪・殺戮は捨象されている。我々日本人が「物語に求めるもの(真実)」と、西欧人が「物語に求めるもの(自分たちをだましたい)」は異なる。
・
spontaが確信する両者の違いは以下。
・武士道: お家のため。
・騎士道: 主君のため。
日本の江戸時代も時代劇の世界も、「自殺を決意する」なら、「正義を貫く」「主君に討つ」ことも許される。つまり、「主君を討った」としても、大衆の支持を受け続けられる。
一方、西洋では、「主従関係を解消」しなければ、「主君を討てない」。どんな事情があろうとも、「主君を討てば」、裏切り者・悪者である。
日本では、義理のために「女を捨てる」が、西洋では、女(姫君)のために「わが身を捨てる」と、佐藤氏は言いたいのだろう。
だが、
(少なくとも日本人にとって)
・「恋愛の当事者」としての自分
と、
・「誇りを貫き通す」自分
を秤にかければ、後者が重要なのは明らか。
※
「少なくとも日本人にとって」とことわったのは、数学者の岡潔氏が、日本人と西欧人の特性を以下に指摘しているから。
日本人: 真情(自分の思い・相手の思い・自然の思い)
西欧人: 感情(自分の思い)
岡氏の発言に従えば、西欧の騎士道ドラマが「恋情(自分の思い)」に従順なら、観客の共感を得られる。それだけのこと。
※
エディット・ピアフで有名な「愛の賛歌」のフランス語歌詞には、
・お前のためなら、盗みも犯罪も犯してやる
とある。
佐藤氏の推論と同じ現象だが、それを「私たち日本人が、愛でてよい」と思えない。
フランス人は、「人が見ていれば、犯罪をしてもオッケイ」。
だが、日本人は「いつもお天道様が見ている」感覚がある。だから、街角の自動販売機が荒らされない。
※
つまり、アリストテレスのミメーシス理論の第二項。
・作品は、現実の(散文性を取り除いた)ミメーシス(模倣・再現)でなければならぬ。
に反している。

・女のために、わが身を徒する主人公
を(フランス人はともかく、日本人は)観客はリスペクトできない。
○
では、OZ理論における評価。