2020年01月21日

学習で利用できるツール類で、よく読まれる記事

2019年末、よく読まれる記事をまとめた。カテゴリーを越えて採録した。

1990年代以降ポストモダンの時代だが、アカデミズムの悪弊により、近代主観主義、思索事大主義が横行し、文系の技術が伝承されることはない。

ここでは、「かいつま(かいつまんで言う)」「真如(短い言葉で表現する)」の精神で、学習者の便利のために、解説した。

若い人や実務者は忙しく、「じっくり本を読んでいる暇」はない。さらに「読解する能力」もない。
したがって、「読むこと」は、「(本を書いたアカデミストに)君臨・洗脳されること」であり、価値はない。

「本を読め」などというモットモラシイことに従う先達に従う必要はない。
「本を読め」というのなら、その本の梗概・主旨・キーポイントを教えるべきである。

経済人類学の栗本慎一郎氏は、「マルクスの資本論」を「ダメだ」と要約・形容した。これにより、私の数十時間が節約できた。(感謝している)

娘の卒論に関連して指導教官はジル・ドゥルーズの「シネマ」を参考文献として挙げた。娘に読解力がないので、私が意味抽出を試みたが、その結論は「ファック」だった。フランスの哲学者は「映画をお題にして、自分の哲学を語った」のであって、何の価値もない。
溝口健二の映画に使われている劇の伴奏音楽を「彼のオリジナルと誤解した」のはその典型。溝口映画の劇伴は、歌舞伎のお囃子を援用したもの。そんな日本人なら「誰でも分かること」が訂正されていない。
映画の隣接芸術で重要なのは、誰が考えても「演劇&文学」。だが、哲学者が自説を展開するには不都合らしく、隣接芸術に関して一切触れていないのは噴飯もの。

「本を読め・読みなさい」とは、「読んだ・読まない」で相手を判断する「手抜き」・「意地悪」・「差別主義」である。

価値があるのは、「何を読み取ったか」であって、「読んだという事実」ではない。

年間300本映画を観たと豪語するような映画ファンのような、経験人数**人と誇るようなヤリチンのような愚鈍な精神・卑劣漢である。

映画学校入学時、読むべき小説を200ほど挙げられたが、「シナリオ実作の最中に読めるはずもない」。
結局のところ、過去の傑作たちから「実作の指導法を見つけられない」未熟な指導教官たちの「手抜き・神秘主義」である。

映画学校の同期で漫才でデビューした友人たち(ピックルス。ウッチャンナンチャンの先輩)がいた。ネタ作りに困った友人の勉強は、「古典落語」の採録本を図書館で借りてきて読むだけ。

今でこそ、吉本興業の養成所で教えられるような「専門用語」が巷間知られているが、30年以上前の当時は、「ボケとつっこみ」という用語さえ、素人にはあまり知られていなかった。

基本メソッドがあれば、論理的に新作を創造できる。「学ぶより、慣れろ」は、教師・先輩の意地悪である。

さらに言うと、「そのジャンルで、一番重要なこと」を一番最初に教えることが親切。

ドラム演奏で「一番重要なこと」。「(それがないと)プロで活動できない要件」は、「メトロノームのように正確にテンポを刻むこと」。だが、その技術は、「習熟度がすすむ」とマスターできない。

「プロになれるかどうかの評価基準」を知らず、「派手なドラムを叩くが、テンポキープができない」男の子が、プロを目指すが挫折し、青春の時間を徒費する。


そんな意地悪な日本を変えたい。
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posted by sponta at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | おすすめ記事リンク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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