2019年03月31日

sponta還暦の感慨。「谺して山ほととぎすほしいまゝ」


杉田久女の句である。

Wikipediaによる彼女の略歴は以下。

大蔵省書記官・赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれる。父の転勤に伴い、12歳になるまで沖縄県那覇市、台湾嘉義県、ついで台北市と移住して過ごす。1908年(明治41年)、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)を卒業。1909年(明治42年)、旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で画家の杉田宇内と結婚し、夫の任地である福岡県小倉市(現・北九州市)に移る。

・谺(こだま)して山ほととぎすほしいまゝ

とは、

深山幽谷に踏み入ったら、静寂の中をホトトギスが心置きなく鳴いていた。
との意味。

だが、高浜虚子の「ホトトギス」を除名され、句集出版の序文を虚子に求めるも無視された彼女の思いが、この句に重ねられているのは明らか。

ホトトギスの「トッキョキョカキョク」という連続した鳴き声よりも、ウグイスの「ホーホケキョ」が静けさを破る感じのほうが情趣に満ちている。女流俳人は、ホトトギスを除名になり、九州・小倉で暮らす自分を重ねるために、この句を詠んだに違いないし、鑑賞者も、そのことを念頭に、この句を鑑賞し、評価してきたに違いない。

・足袋つぐやノラともならず教師妻

におけるノラとは、「人形の家」のノラであり、出奔しないで、ダンナの足袋を繕っている自分を卑下した直情的な句であるが、「谺して・・・」の句は、説明も解釈も必要としない。堂々たる歌である。
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2019年03月30日

ヒストリー・チャンネルの本質性。


「メディアはメッセージである」と、マクルーハンは言った。

その意味は、「メディアで重要なことは、コンテンツの中身ではなく、そのメディアが何のために存在するか」ということ。
「何を言われたか」ではなく、「どのような状況で言われたか」こそ、伝えたいことの本質を表現しているという意味である。

上級生が、下級生を、体育館の裏に呼べば、その状況で、何が起きているか、が明解に分かる。
その時、上級生が、下級生に何をしたかなど、二義的な内容でしかない。
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2019年03月29日

イチロー選手は、アメリカではジョークマン。


だそうである。

一方の母国・日本では、ことの本質を突いたシニカルなコメントが多い。

なことを、シアトルマリナーズの重役と食事・談笑をしたことがある木村太郎氏がテレビと語っていた。
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2019年03月28日

美醜の問題ではない。いだてんの勘九郎氏。


NHK大河ドラマ「いだてん」の視聴率が低迷しているという。

その原因を、中村勘九郎氏が一手に引き受けている。

曰く、不細工。

だが、父も、祖父も、けっして二枚目ではない。祖父はいわば鬼瓦タイプであって、愛敬はあったが、美形とはいえぬ。

彼の後の主役を引き継ぐ阿部貞夫氏にしたって、二枚目ではない。
つまりは、観ているだけで満足する。そんなタイプではない。だが、阿部氏が主役を演じるドラマは常に好評だった。

ことは美醜の問題ではない。
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2019年03月27日

韓流ドラマがオモシロイ理由。または、日本のドラマがダメな理由。


映画・ドラマの評価法について書いてきた。

それは、ミメーシス芸術論を映画・ドラマに適応したものである。

ミメーシスとは、模倣再現のことであって、基本理論は以下になる。

1.作品は、現実の模倣再現。

2.作品は、過去の作品(傑作)の模倣再現。

ただし、ダイヤモンドユカイ氏が言う「コピーじゃだめだよ。カバーじゃなくって」のように、現実や過去の作品を「上回る」ものにしなければならない。

そして、17世紀フランス古典演劇理論では、「ありえない」はダメ。と明確に指摘している。
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2019年03月26日

「映画・ドラマのの評価法」のまとめ。(2019年現在の結論)


spontaの起論したのは、TBSの演出家・鴨下信一氏の「最近のドラマは、アンタゴニスト(登場人物の対立)が足りない」という発言から。
昭和を代表するシナリオライター・向田邦子作品のドラマは「失われた家族」がテーマであり、アンタゴニストは希薄である。

そこで、「デュエル&ロスト」理論を立ち上げた。

ハリウッド・韓流の「デュエル(対立)型ドラマ」と、忖度の国・日本ならではの「ロスト型ドラマ」という二つのジャンルが存在する。

ハリウッド・韓流は、

・デュエル・オブ・パッション(熱情の対立)

日本は、

・ロスト・オブ・エモーション(失われた感情)

を主軸に、ドラマが展開する。
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2019年03月25日

浜松国際ピアノコンクールの審査について。


「題名のない音楽会」に、日本の代表的な国際的なコンクールとして知られる浜松国際ピアノコンクールの審査について、審査委員長が概説していた。
それは、以下。

・すべては審査員の判断。議論はされない。
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2019年03月24日

帝王・ベッケンバウアーとポジション・チェンジのサッカーのヨハン・クライフ。


はるか昔。ワールド・カップでドイツに負けたオランダの名選手・ヨハン・クライフは、「醜いサッカーをするくらいなら、負けたほうがまし」と発言したが、それは「負けたから」発言しただけ。

真実ではないというのが、もっぱら。

ドイツはゲームメイカーのフランツ・ベッケンバウアーが帝王と呼ばれ、フォワードのゲルト・ミューラーはボンバー・爆撃機と呼ばれた。
一方のオランダは、ポジション・チェンジを繰り返し、臨機応変な戦法で相手を惑わせた。

オランダのサッカーは新機軸。一方のドイツのサッカーは古めかしい。
だが、結果は、ドイツが世界を制覇した。


組織論的に考えると、

・帝王・ベッケンバウアーによる「中央集権・中央制御」なサッカー。

が、

・全員が主人公の、有機的なサッカー。

を負かした。ことになる。
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2019年03月23日

Wikidepiaに変更を書き込む。

Wikipediaは、百科事典であって、意見を書き込むところではない。

そんなことは分かっている。

つか、現実が、妥当性の低い・意見・主観によって成り立っているのだから、修正を書き込んだ。

閲覧履歴で「小澤征爾氏が、人生を棒に振らないように・・・」の記事にアクセスがあったことに対する、私なりの現実的な対応である。


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理想主義は、非現実主義。そして、シャガール。


「理想を持つこと」は、良いことと思っている人が多いかもしれぬ。

だが、「理想」は「非現実」である。

ならば、

「理想主義の教育」とは、「現実を受け入れない教育」。

そんなことを、ふと思った。
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2019年03月22日

イチロー選手は、花相撲をしなかった。


イチロー選手は、今年のキャンプで結果がでなかったので、引退を決意して、この二連戦に臨んだと引退会見で明かしている。

もっとも、オリックスで一緒だった、というか、イチロー選手の風よけになるために、パンチ佐藤と命名されたパンチ氏は、引退試合になることは、1年前からわかっていたが、それをいえない事情があったと推察した。

通常のパターンなら、シリーズの優勝チームが決まった日程消化試合で、引退試合が行われたり、オープン戦で引退試合が行われたりするが、真剣勝負の公式戦・開幕戦で引退する。それも、引退を宣言せぬまま、試合に臨んだ。

大相撲では、引退を決意した力士は、本場所の土俵に臨んではならぬという、掟があるが、今回のイチロー選手も、引退試合という「興業試合」・花相撲を選択しなかった。

それが、アスリートとしての王道を歩んできた彼の本意である。
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2019年03月21日

ベートーヴェンの交響曲を聴く。


久しぶりにCDを買った。

振らない指揮者として伝説になっているカルロス・クライバーのウィンフィル。

ベートーヴェンの5番と7番。

Amazonの評には次のようにあった。

「クライバーの第7はカラヤン+ベルリンフィルを超えている」と聞いたとき「ウソだろ」と思った。ぼくにとってベートーベンの7番は絶対にカラヤンだった。特に、終楽章のホルンのスピード感と切れ味は誰も追随できないだろうと....
違った。リズムの大氾濫状態を生み出しながら、それに流されず、ノリの良いロックでも聴くような恍惚感を与えてくれる。とにかくカッコいいんです。一度聴くべし。

結局のところ、何が起きているかといえば、「帝王カラヤンは、ベルリンフィルに君臨して、音楽をつくった」。

だが、カルロス・クライバーは、「楽団員たちの自由にさせた」。

それが、本質だと思う


この歳にして、カラヤンを聴きなおして、両者の違いを確認しようとは思わない。

カルロス・クライバーの演奏を聴いていると、泣ける。

管楽器のアーティキュレーション(フレージング)にその素晴らしさが出ていると思う。


カラヤンは、自身の主観が絶対だった。

カルロス・クライバーは、楽団員の主観を大切にした。

その違いが音楽に出ていると思う


若い頃、理由も明らかにせず、カラヤンの悪口を言うわが父を理解できなかった。

いま、60歳にして、カラヤンの「味気ない音楽」が、骨身に染みて理解することができる。

カラヤンは「音は美しい」。だが、それ以外はどうだろうか・・・。

指揮者の主観を100%実現しているのが、カラヤンの凄いところ。凡庸な指揮者なら、あそこまで徹底できない。


30年以上前のラジオ局でのできごと。

(子供向けの)ミュージカルの演出助手をしていた私は、ラジオ番組のオープニングのタイトルコールの録音に際して、
「テーマ曲が始まったら、気持がいいところで入ってください」
と、局アナの林美雄氏に指示した。

すると、深夜放送でも人気だった林氏は、「それでは困る」。キューを振るのが、あなたの仕事と、叱られた。

キューの赤いランプが付いたらコメントするのが彼の仕事であって、ディレクターのあなたが違うなと思ったら、僕は何度でもやりなおす。


舞台とテレビの違い。

というか、アートとビジネスの違いというか・・・。


アナウンサーとは「言う」器官なのであって、「感じる」必要はないということか。

最終決定権は、ディレクターにあり、アナウンサーは責任を持たない。そんなことかもしれない。

だが、演者の感性を否定してはならない。それが、30年以上たったspontaの結論。

そして、カラヤン。カルロス・クライバー・・・。

林美雄氏は早世されたが、懐かしい思い出である。









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2019年03月20日

栄養サプリメントに思う。


インスタントラーメンを食べると、3時間でお腹が空くけど、ラーメン店で食べると6時間は持つ・・・。

インスタントラーメンを作る工場では化学合成がされているハズもなし、ラーメン店と同じスープ作りをし、それを「粉末化」しているに過ぎないだろう。

しかし、その差は、大きい。

つか、改めて、言う必要もない。


とすれば、

各種、栄養要素に特化して、錠剤化したものも、実際は、「本物のラーメン」と「インスタントラーメン」の違いがあるのかと思われる。

ま、そんな感じ。
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2019年03月19日

カルロス・クライバー(振らぬ指揮者)にホロットする。


車に入れているCD。

変えるのが面倒なので、「英語のCD」と、音楽の2択になっている。

音楽は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番。

高校2年の時、川越高校吹奏楽部の定期演奏会でやった曲。ソリストは3年の熱田庫康氏。私はセカンドクラリネットだった。

聴いているCDは、マルタ・アルヘリッチ。指揮はサイモン・ラトルだったかと・・・。
今、マルタ・アルヘリッチ、ベートーヴェンの第1番協奏曲で検索すると、小澤氏との共演がヒットする。

今世紀になってから、一度も逢っていない父は、

・小澤征爾は、浪花節。

と批判していた。
その意味を、私は分かりかねていたが、真意は、

・小澤征爾氏の指揮は、タイム感のないテンポルバート。

ということ。

父は言語化できなかったが、間違っていなかった。そして、父は、カラヤンもぼろくそに否定していた。

息子の私が思う、父の欠点は、「否定するだけ」。「正解・理想を提示しない」こと。

この場合の正解こそが、カルロス・クライバーである。

この系列に、佐野裕氏や、山田和樹氏もいる。

山田和樹氏は、無知蒙昧にも、「音楽は、すべてテンポルバート」と、間違ったことを「題名のない音楽会」で主張する。

彼の言葉を信じた管楽器奏者は、東京芸術大学に入学できない。

彼の発言は、テンポを許すことでしか、オーケストラを律することができぬ、指揮者のステークホルダーを表現しているに過ぎない。

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2019年03月18日

数学・物理連携の教授の最終講義。


「自分が間違っている」と教えられることは、うれしい。

なぜなら、それは「真理」に近づくことだから。

最終講義で、M氏は告白する。


サイエンスって、すばらしい。

それが、リベラルアーツ(文系学問」ではできない。
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2019年03月17日

日本政府は、統計に手を加える伝統を死守していた。

統計に手を入れていたことが発覚し、国会で問題になっている。

多くの人が失念していることだが、

・統計(学)とは、全数調査ができぬ場合に、部分的な調査をして、全体を推定すること。

学校の生徒が1000人いて、「全員に、項目選択の質問」のが大変なので、「10人にインタビュー」して、その結果が「全体の割合」に等しいと仮想するのである。

この時の問題は、「項目の設定」の問題と、サンプル抽出における「恣意性のなさ」が重要となる。

つまり、

・全数調査が可能・実現できる高度情報化社会において、「統計」というニーズは無くなった。

そもそも、統計に妥当性はない。

とすれば、「結果に、恣意的に加工を加える」との意味においてのみ、「統計」は存在する。


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2019年03月16日

愛される理由。


Eテレを見ていたら、黒田官兵衛親子の子育てに関連して、俳優の渡辺徹氏が出演していた。

秀吉・家康に恐れられた父・官兵衛。そして、周囲から愛された息子・長政。

すると、「太陽にほえろ」で、国民的スター・石原裕次郎と共演していた渡辺徹氏が、

・裕次郎さんは、人を愛したから、愛されたのです。

と、分かったようなことを言う。

それは嘘。(因果応報のような単純ではない)
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2019年03月15日

ロンブー・田村淳氏の「勘違い」。



『受験』
1年経った今でも言われる…社会人が未来ある若者の大切なひと枠を奪うな!と…でもその意見はおかしいと思うんだよね…社会人でも現役生でも、大学に行く目的があっても無くても、全ての人に門戸は開かれてるはずなので…学びたい人は、学びたい時に遠慮なく学べば良いと思う。

(彼のツイッター 3/14より)



*

まず、受験と「学びたい」は関係がない。

田村さんは、「高校の勉強をしたい」のだろうか・・・。

もし、そうなら、「その成果を吟味する」ために、大学受験をすればいい。
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ホログラム説と、マトリックス説。


CS・ディスカバリーチャンネルの番組では、

・この世界は「2次元から投影された三次元世界」

なる説を紹介していた。

数学者たちは、

・量子力学と重力理論の矛盾

を解決するには、ホログラム説しかないと結論する。

2次元といっても、縁ができるので、2次元は「球体の表面」。

銀河(3次元)の外部に、球体(2次元)があるという。
番組では、もともと「純粋な情報」だけが存在し、それが平面を得て「2次元で存在」し、さらに「3次元」を発生した。
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2019年03月14日

アインシュタインは「この世界は、いくつかの単純な公式によって成立している」と言った。


                      2 
アインシュタインは、相対性理論で、e=MC  という公式を提出した。

エネルギーは、質量と加速度の二乗をカケたもの。つー、意味だが、代入して、答えを出した人がいるのだろうか。(ま、専門家はいるんでしょうね・・・。素人が知らないだけで)

「明るさの量は、光源からの距離に反比例する」なら、計算は可能。

中学生の頃だったか、遠くで行われている花火の音と光の時間差から距離を算定し、どこで花火が打ち上げられているのかを算出したことがある。
私が住んでいたのは朝霞市。打ち上げ場所は「としまえん」だった。
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