2016年03月31日

町山氏 vs. 菊池成孔

一昨年の秋の出来事だったと記憶するが、ジャズドラマーの育成に関する映画「セッション」に関する論争があった。

町山氏は「セッション」を評価し、菊池氏は「セッション」をケナし、かつての映画のヒーローを演じた老優が、ブロードウェイ演劇に挑戦する映画「バードマン」を推した。
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2016年03月28日

乙武氏の性癖…。

最近、レイ・チャールスを人生を描いた映画「Ray」を観たが、「視覚を失った人」が「高感度の聴覚」を獲得していたことが表現されていた。

その意味で、乙武氏は、「五体不満足」なのだから…。と、夢想する。



手がないのだから、皮膚感覚は失われている。
したがって、彼の陰茎の感覚が、一般人よりも優れていることは、容易に夢想できる。
さらにいえば、彼には手がないので、「自慰行為」ができない。それを、代理する女性たちは、「自らの行為の至上さ」を至上の喜びとしたのかもしれない。

そして、「異形の人」を嗜好するような「性癖」は、男性であっても、女性であっても、少なからず存在する。皆無ではないのだと思う。



乙武氏の醜聞は、こればかりではないし、伴侶が認めているなら、「複数の愛人」が存在することを批判する必要もない。

問題は、彼が国会議員に立候補するからであって、今回のようなラベリングがされていれば、それとて何の問題もない。逆にいえば、障害者のノーマライぜーション的には、今回の暴露記事も、悪いことではないのかもしれない。


とはいえ、私がこんな記事を書いているのは、乙武氏を好きだからではない。と、一応、断っておこう。




追記:
出張に耳掻きを持って行くのを忘れ、数日の出張を終えて家に戻って、ひさしぶりに耳を掻いた時の快感を思い出す。

*

かつて、オウム麻原の愛人と噂される美人たちをテレビで見たが、教祖の快楽は、人数や回数を重ねるうちに減じていったと夢想した。
しかし、乙武氏の快楽はゆるぎなく…。

などと、要らぬことをイメージする。
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2016年03月27日

嘘ではなく、思いこみ。

ショーンK氏の話である。

テレビの週刊誌報を総合すると、「彼は、嘘をついている」のではなく、「思いこんでしまった」と。

彼は、嘘をつくことは悪いことだが、思いこむことは悪いことではない。とでも言うように…。



幼少期に、彼に何があったのだろうか…。

養父がいるとのことだから、片親だった時期があり、そういう自分の境遇を「合理化」するための物語が必要だったのかもしれない。

幼い頃に、ニューヨークに何度も行ったというが、それさえ、事実かどうか、わからない。

マクアドルというミドルネームは、熊本の自宅近所にあった英語塾のネイティブの教師の名前との証言があるから、ニューヨークになど、行ったことはなく、すべてが彼の妄想なのかもしれない。



インタビューの最中に、整形疑惑について質問すると、プライベートなことなので…。と断り、コンタクトがずれたと行って、洗面所に中座したという。

これは、「わかってくれ・察してくれ…」という彼の深層心理の悲鳴かもしれない。

*

彼にとって、学歴よりも、整形のほうが、心理に致命的な打撃を与えることを暗示している。



九州から東京にやってきた彼は、「本物の帰国子女」・「ハーフ」という別人格をねつ造し、精神の平衡を保った。

これこそが、マスコミで彼の周辺にいた人物たちが、彼に同情する理由かもしれない。

とはいえ、ほとんど事業として成立していないコンサルティング会社の是非については、批判されていいのかもしれない。

なぜなら、「心理的な防衛本能による所作」と簡単に切り捨てていいとは思えないから…。
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2016年03月15日

シナリオとは…。

若い頃、溝口健二監督が新藤家兼人氏に、「これはシナリオではありません。ストーリーです」と言ったというエピソードを痛烈に憶えている。

その理由は、「シナリオとストーリーの違い」が分からなかったからである。




勉強をしていなければ、「シナリオは、演劇台本・放送台本」。「ストーリーは、小説・読み物・あらすじ」と考えてしまうだろう。



最近読んだ本によれば、厳密にいうと、「時系列に書かれたのがストーリー」。「語り口の順に書かれたのがプロット」。…と。

その延長線上で考えると、私の考えでは、

・「出来事」を淡々と記述したのが、ストーリー。(叙事的)

・「出来事」の背後にある、人間の「超目標・自律・自律」そして、関係人物たちの対立を描いたのが、シナリオ。


となる。



たとえば、

「昨日、うんこをもらした」は、ストーリーであり、「昨日、うんこをもらしたところを、友人Aに見つかってしまい、はずかしかった」はシナリオである。
(^▽^;)
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2016年03月13日

新宿ピットイン、50周年記念コンサートをテレビで見る。

こんなサイトがあった…。

さて、2日間にわたる半世紀の歴史を物語るイベントは、成功裏に幕を閉じた。世界でも希有な経歴の老舗ライブハウスの節目を飾るにふさわしい内容であったことに異論を挟む余地はないだろうが、あえて言おう。このイベントに、過去を振り返るために立ち止まるイメージのある“節目”という言葉は似合わない――。

 ジャズは、特定の世代や特定の時代に封じ込められるものではなく、自由に世代や時代を往き来することができる、いや、その特権を最大限に活かさなければならない“宿命”を負った音楽なのだ。

 その“宿命”に呼応する者の“たまり場”として、新宿PIT INNがこれからも機能し続けるという“未来の展望”を暗示したのがこのイベントの本意だったと、ボクは解釈している。

http://arban-mag.com/report_detail/21

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2016年03月12日

演技と朗読の違い…。

こんな2ちゃんねるの記事があった。

長谷川アナがテレビで熱弁!「吹き替えをタレントがやるのはやめてくれ!」「声優さんの実力はアナウンサーでも敵わないレベル」 [無断転載禁止]c2ch.net

http://potato.2ch.net/test/read.cgi/moeplus/1457596508/-100



長谷川アナが、「実力」について指摘しているが、どういうことか、形式批評しなければならない。

基本的にいうと、

・朗読は、セリフと気持ちが同時進行してよい。

・演技は、セリフと気持ちが同時進行してはならない。


これは、私のオリジナル理論だが、これを知っていれば、実力の違いはよく分かる。

*

つまり、人間の神経系は、

・脳 → 口

または、

・口 → 脳

に情報・信号が伝達されるので、同時に進行することはありえない。


セリフに気持ちを込めるような演技は、アンリアル。ありえないということ。

昨日は、うたたねをしながら、TBSドラマの演技を音だけで聴いていたが、綾瀬はるか、三浦春馬、など、まったくダメ…。
(^▽^;)

もっと気がついたのは、ほとんどが主演の綾瀬はるかのセリフの抑揚の影響を受けてしまっていること。

ま、そんな感じ。

演技では、セリフと気持ちと動作はシンクロしてはならない。

ということである。
posted by スポンタ at 05:02| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月11日

巨人軍はみんなで、野球賭博をやっていた。

娘が小学1年生の時の担任の先生が、「お子さんがみんなと言ったら、それは3〜4人です」と、入学式直後の教室でオッシャラレタ。

大人は「みんな」というと、最低でもクラスの過半数だと思うが、実際は…。


クラッシック音楽でいえば、3声でも、シンフォニアだったか…。



その意味では、巨人軍の3選手が野球賭博をやっていたのだから、「みんな…」。

選手会の会長など、一切、会見に関わっていないのは、今回の高木選手が可哀想すぎる。


ま、以下のようなこともあったのかもしれない。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/takashikiso/20160310-00055249/
posted by スポンタ at 06:23| 東京 ☔| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月08日

福原愛さんの凄さ。

愛さんの凄さは、いままでも書いている。

それは、オリンピックの時に、手に書いている文言が、選手村から試合会場に向かうバスの時間だったこと。
このリアリズムは凄いと思った。



さて、今回。

試合が終わった中学生・伊藤選手に近寄った愛さんが言ったのは、
「怖かったよね」ということ。


愛さんは、試合をしている伊藤選手の気持ちが手に取るように分かったというが、まさにその通りだと思う。

posted by スポンタ at 08:10| 東京 🌁| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

司馬遼太郎は、昭和の御用作家である。

戦前の御用作家としては、小説「徳川家康」の山岡荘八が有名だが、司馬遼太郎を、御用作家と見る向きは平成の今もないだろう。

山岡は、「民衆の戦意高揚な精神」に影響する小説を書いたのである。
一方、司馬遼太郎は…。

司馬氏が御用たる理由は、「外国勢力の影響」の結果である歴史的な事実を、「外国勢力とは無縁の出来事」として、描いたことである。



あまり知られていないことだが、自由の反対は、不自由ではない。
自由の反対は、旧体制(アンシャンレジーム)。なぜなら、自由という概念は、フランス革命で叫ばれたから。

同様に、平等の反対は、不平等ではなく、身分相応。



さて、司馬氏の特集をNHKでやっているが、最初の回は、「国盗り物語」だった。
番組では、司馬氏が、信長・秀吉・家康の代表的な武将をとりあげ、それぞれ「壊すタイプ」・「作るタイプ」・「つづけるタイプ」と形容したと紹介した。

しかし、戦国時代の要因は、封建制度の崩壊であって、その裏には、貨幣経済の浸透があり、そこには、外国勢力・イエスズ会の影響は必至であろう。

お賽銭は信長が始めたというし、卸や問屋の制度も、信長が…。
つまり、そういう社会制度的な、または、貨幣経済に関連した外国勢力の侵攻を表現せず、武人の「個性」にのみ関心を持った。
それが、私が司馬氏を御用作家と見る理由である。


同様に、明治政府が英国の傀儡政権であるのに、それを幕末の志士たちの「個性」によって表現した。
龍馬の姉への手紙を思えば、何故、龍馬に、そのような通信費用があったのか、疑問を持つのが当然だが、司馬氏は…。

また、日本海海戦は、英国海軍からやってきた観戦将校のお手柄なのに、日本の軍人の「個性」を小説にした…。

そのような司馬氏が紡ぐ「この国のかたち」…。
結局のところ、それも、自虐史観であって、「外国勢力の介在」を一切表現しない。



日本の本質は、
「縄文的な自給自足社会が、弥生的な寄生社会と遭遇し、妥協しつつも、縄文的なルーツを根絶やしにせずに、現代に至る」
である。

それは、縄文的な文化の「弥生的な文化」に対する敗北の歴史である。

しかし、たびたびの敗北にも関わらず、私たちには縄文の精神が生きている。


それが、日本である。



教科書は正史であって、稗史ではない。
平成の私たちは、稗史を紡がなければならぬ…。

それが、ニューヒストリシズムである。

稗史を書こう。
そう思っている。


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2016年03月07日

笹川良一氏を礼賛する。

笹川良一氏の社会奉仕活動

日本船舶振興会の活動により社会奉仕活動家として知られ、振興会の支援を通して、船舶・造船事業の振興、海運安全の推進、福祉・国際援助活動、各種武道・スポーツ団体への協力などさまざまな慈善事業を推し進めていった。

日本船舶振興会のテレビコマーシャルに自ら出演。子供たちとの「一日一善」の掛け声や社会奉仕活動の模様が紹介された。なお高見山(高見山の後援会長でもあった)[注釈 8]、山本直純、子供たちと共に「一日一善」等のシーンは1975年(昭和50年)から会長を務めた財団法人日本防火協会(現・公益財団法人日本防火・防災協会)のCMにも使われた。CM全体のイメージが日本船舶振興会のそれとほぼ共通であったため混同されがちである。
ちなみに同協会でCMを流していたのは、笹川の在任期間とほぼ同じ1976年(昭和51年)から1994年(平成6年)まで。

ちなみに1970年代後半頃はその「一日一善」のCMは、曜日ごとに内容が変わる“曜日変わりバージョン”も存在した。この時期に小中学生であった者にとって、笹川良一は「一日一善」若しくは「『戸締まり用心、火の用心』のおじいさん」として認識されていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%B9%E5%B7%9D%E8%89%AF%E4%B8%80


昔、船の科学館に行って、笹川氏が、母を背負って、金比羅さんの階段を登っている絵を見て、苦笑とした記憶がある。

「お父さん、お母さんを大切にしよう」と当然のことを言う、自己顕示欲の強いお爺さんという印象である。

しかし、今、冷静に笹川氏の行動を分析すると、ゲマインシャフト(伝統的社会)を、アメリカが崩壊させ、ゲゼルシャフト(利益追求社会)にしようという目論見に、果敢に、反旗を翻していたことになる。

今、私が思うのは、笹川氏の「一日一善」・「お父さん、お母さんを大切にしよう」は、モハメド・アリ戦で、アントニオ猪木がとった、寝転び戦法と同じであること。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E7%8C%AA%E6%9C%A8%E5%AF%BE%E3%83%A2%E3%83%8F%E3%83%A1%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA



つまり、対戦前、アリ陣営から、「手足の3点をマットにつけている状態でないと、攻撃してはならぬ。それを破ったら、狙撃・射殺する」と、無理難題な「秘密のルール」を強制されていたから…。

何も知らぬ格闘技ファンは、事情を知らないから、アントニオ猪木が、アリのパンチを恐れた戦法と、批判したのだが、アントニオ猪木は、秘密をもらさないまま、今に至っている。



笹川氏は、アメリカの攻勢に、ギリギリの戦法を取った。
それが「お父さん・お母さんを大切にしよう」。昭和の時代に「攘夷」を叫ぶわけにもいかぬ…。

笹川良一氏は、ファシスト・国粋主義者・愛国主義者など、さまざまなに形容される。

しかし、それは「外国勢力の侵入・侵略」に対する抵抗であって、ムッソリーニやヒットラーと違って、その手法が「慈善事業」というのは、独創的であり、画期的である。

現在も、「外国勢力の日本支配」は続いているので、笹川氏が礼賛されることは今後もないだろうが、そういうことである。


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2016年03月04日

娘、研究を否定されて喜ぶ…。

昨年、娘の学外発表会があり、昔、数ヶ月間、一緒に仕事をしたことがある情報技術系の人と偶然出会った。

私は、娘と共同研究(私にとっては、思索でしかないが…)をしているが、プロ野球チームを持っているIT系の会社で働く彼は、「間違ってはいない」・「ただし、ちょっと古い」と、私の言葉に反応した。

娘にとって、自分の父親が、「間違ってはいない」と是認されたことよりも、「ちょっと古い」と否定されたことが、快感だったとか。続きを読む
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2016年03月03日

「物言う人」は異常である。

娘の友人が出版社でアルバイトをして、読者アンケートの仕訳けの仕事をした話を聞いた。

娘曰く、「読者アンケートは、ガス抜き」であり、私は、「消費者の意見を現場に活かす」と言う。

そこで、私は「違うよ」と。



若い頃、ラジオ番組の制作をしていた頃、番組にリスナーの手紙がやってきて、スタッフ全員で、まわし読みをした。
私が、これらの意見を番組に反映しましょうと言うと、局のプロデューサーは、「ラジオを聞いて、意見のはがきを書いて寄越すような人」は「ちょっと変わっている人」であって、「リスナーの大部分」とは違う」と。


書籍の読者アンケートにはがきを出すような人も「ちょっと変わっている人」であって、サイレントマジョリティー(物言わぬ大多数)とは異なる。

日々、不満を抱えて生きていたり、特殊な宗教の信者だったり、マスコミで仕事をしたかったり、そういう「特殊な信条・意欲」から、得にならない「自己主張」をした人たちということである。

そのような意見を「現場に反映したら」たいへんなことになる。「ガス抜き」には、ガスを抜かなければならない理由がある。



本来は、「物言わぬ人」に「物を聞く」のが理想であり、「物言う人」は、少なくとも(文化的同一性の高い・ハイコンテキストな)日本社会において「異端者」。

それは、市民運動をやっている「プロ市民」を思えば理解できるかもしれない。
彼らに「価値を求める」のは、純朴・素朴な魂であって、現実は複雑である。
さらにいえば、彼らが「なんらかのインセンティブ(動機付けのための資源)を得て活動している」可能性は高い。



「ものを言わなければ、わからない」と当然のような理屈は、ローコンテキストの社会に限定される。

ハイコンテキストな日本では、他者のことを思いやり、自省的に、自分の内観を追求すれば、「人に聞く」ことは最低限で済む。
posted by スポンタ at 07:27| 東京 ☀| Comment(0) | スポンタと娘…。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月02日

シンギュラリティーはやってくるのか。

シンギュラリティーとは、技術的な特異点であり、より狭義では、「人工知能」が「人間の知能」を越える時代がやってくること。

1965年、統計家 I. J. Good は、人類を超えた知能による世界への影響を強調し、より特異点に迫るシナリオを描いた。

超知的マシンを、いかなる賢い人もはるかに凌ぐ知的なマシンであるとする。そのようなマシンの設計も知的活動に他ならないので、超知的マシンはさらに知的なマシンを設計できるだろう。それによって間違いなく知能の爆発的発展があり、人類は置いていかれるだろう。

従って、最初の超知的マシンが人類の最後の発明となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%80%E8%A1%93%E7%9A%84%E7%89%B9%E7%95%B0%E7%82%B9


つまり、
「人間が、ロボット(人工知能)を作る」
のではなく、

「ロポット(人工知能)を作る」時代がやってきて、そのようにして作られたロボットが、「人間の知能」を上回る時代がやってくる。ということ。




とはいえ、ロボットの三原則(人間への安全性、命令への服従、自己防衛)を心配する必要はない。

何故なら、アラン・チューリングの定義によれば、人工知能とは、「同じインプット」にはかならず「同じアウトプット」をすることで、開発が始まり、チューリングテストとは、人工知能が、「人間のように思える」ということでしかないからだ。

人工知能のふるまいは、基本的に、

y=f(x)

である。

最近、話題になっている、ディープラーニングにしても、「ロボットが自発的に」、xの数を増やすことでしかない。

y=f(x1.x2,x3,x4,x5...)

たとえば、肉まんの自動製造機械があったとして、いままでは変数がひとつだったので、「肉まん」と「餡まん」しか作れなかった。

y ギョーザ=f 生地でつつんで蒸す(x 肉or餡)

それが、生地を変えることで、「ギョーザ」や「トルティーヤ」「春巻き」も作れるようになること。

y ギョーザ=f 調理する(x1:中身は 肉or餡or春巻きの具, x2:生地はギョーザの皮、春巻きの皮)

より現実に近い表現ならば、

「物を置く」という動作を、「やさしく置く」に、ロボットが自動的に改良する。具体的には、動作の速度を直線から、曲線に変化されることで、動作の始まりと終わりを「なめらか」にすること。であり、その程度の技術革新は、予想できる。

たとえば、画像ソフトで、「斜線が、階段状(四角形のブロックの連続)に表現されていた」なら、「(無限に)解像度を上げる」プログラムを開発すれば、「なめらかな曲線」が「自動」で実現するはず。



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ただし、関数fは、「人間が作る」のである。だから、シンギュラリティーは訪れない。



などと楽観視していたら、学会誌を見ていたら、関数fも、「ロボットが製造する」ということが、ディープラーニングに含まれるというような論調であった。

ただし、それとて「計算をしていて、割り切れないので、無限に計算する」ようなこと(1を3で割ると、0.333333333.....と無限に計算していく場合をイメージ)が起きるのかもしれないのであって、プログラムを書いた人間を抹殺するような「主体」をロボットが持つとは容易に考えられない…。

つまり、チューリングテストのように、あくまで、「人間が振舞っている」かのように、ロボットが動作しているのであって、それが「人間の悪意」を感じさせるなら、それは、「プログラムした人間の悪意」でしかないだろう。というのが、私の結論である。


人間が、ロポットに「主体」を感じることがあっても、ロポットが「主体」を持つことは考えられない。

しかし、もし、そのような事態が訪れるなら、シンギュラリティーと呼ぶのだろう。
posted by スポンタ at 07:45| 東京 ☁| Comment(3) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月01日

ITの最前線の考え方。

人工知能の開発によって起きることは、「人間による意思決定の重要度」が増すこと。「人間による単純労働の価値」が減ること。

想定される人工知能の欠点は以下。


1.意志がない。

2.人間のように知覚できない。

3.事例が少ないと対応できない。

4.問いを生み出せない。

5.枠組みのデザインができない。

6.ヒラメキがない。

7.常識的な判断ができない。

8.人を動かす力がない。

ハーバードビジネスレビューの2015.11月号


したがって、上記は、「人間」がこなさなければならぬ。



そして、最近指摘されるのは、人工知能によって実現するのは、自動化ではなく、オーグメンテーション(深化)である。
ディープラーニングも深化学習と訳される。

ディープラーニングは、2012年、カナダのトロント大学が開発したSuper Visionの「データをもとに、コンピュータがみずから特徴量を作り出す機械学習」による驚異的な画像認識の精度によって、注目されたという…。

因みに、
機械学習とは、Yes,Noなど、あらかじめ、答えの選択肢が決定しているもの。
「おむつとビールの相関関係」を発見するデータマイニングとは異なる。
ディープラーニングでは、変数をコンピュータが自分で選ぶこと。




ハーバードビジネスレビューの2015.11月号では、自動化の3つの時代として以下を指摘している。

1.危険で汚い仕事が機械に移行する。
機織や綿くりなど、産業革命。

2.退屈の仕事が機械に移行する。
空港のチェックインやコールセンターの自動インターフェース。人間が、取引のルーティーンや事務作業から開放される。

3.意思決定が機械に移行する。
航空運賃の決定からIBMのワトソンなど、「人間よりも、早く確実な、より優れた選択」を行う。


このトレンドの変化を、
「オートメーションから、オーグメンテーション(深化)」という。
つまり、オートメーションが「人間を楽にする」だったのが、オーグメンテーションでは「新たな仕事を開発する」。
それにより、人間の雇用が確保される。


そう考えてみると、オーグメンテーションも、労働組合に向けたスローガン・プロバガンダの一種という気がしないでもないが…。
posted by スポンタ at 10:33| 東京 ☀| Comment(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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