2007年05月31日

セカンドライフは、英国式庭園である。ウェブ2.0に背を向けるセカンドライフとミキシー。

ミキシーがウェブ2.0的であるというのは、間違いである。

同様に、セカンドライフもウェブ2.0的ではない。


というのが、私の言論である。



NTTレゾナントの肩書きで、インプレスのウェブ2.0のムック本に書いていた上原仁氏は、現在は、マイネット・ジャパンの社長になっている。

彼の言説によれば、ウェブ2.0の条件は、三つ。

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1.ユーザー主役

2.オープン性

3.外部性

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ということだ。

ユーザー主役とオープン性は分かりやすいが、問題は、外部性。

外部性とは、コミュニティーが拡大することが、すべての参加者にとっての利益になるという条件である。


実は、その条件がインターネット独特なものであり、インターネットの特質を考えるときに極めて重要だということが無視されてきた。

私が、ライブドアのパブリックジャーナリズム以来指摘し続けているのは、「インターネットは無限の地平」であり、「固定パイを奪い合うような椅子取りゲームではない」ことである。



では、ミキシーを考えて見よう。

SNS(ソシアルネットワークサービス)とは、クローズドなコミュニティーが、ユーザーに安心感を与えるという構造を持っている。だが、ユーザーが増えていけば、クローズ性は低くなる。

つまり、コミュニティーが拡大していくと、「いままで、鍵を開けて中に入っていたのが、鍵を開けて外に出る」ような感覚になる。

昨今、ミキシーの株価の低迷が伝えられているが、当然のことである。
ミキシーがもがいているのは、中が外になってしまったのだ。それに尽きる。



さて、セカンドライフである。

セカンドライフは、バーチャルな空間をつくっている。

私のパソコンスペックは貧しいので、登録をするも、使い込むことができずにいるが、セカンドライフは、もうひとつの地球をイメージさせる。

折角のインターネットなのに、有限な地平。
致命的である。

さらに、セカンドライフの空間を仄聞するに、それはリアルな世界をなぞっている。
伝えられるエピソードも、リアルと同様。リンデンドルがあり、建物を立て、広告があり、人間が行動する。

セカンドライフは、もう一つの地平を目指している。

それがセカンドライフの運命を示している…。

リアルをなぞり、もうひとつの世界を追求するならば、グーグルに勝てるはずはない。




いま、グーグルは情報の新たなる地平をつくるだけでなく、グーグルアースというリアルに極めて近い地平をつくり、それを三次元にし、金融サービスに参画しようとしている。

つまり、グーグルはリアルに近いところからもう一つの亜リアル空間を作ろうとしている。

一方のセカンドライフは、3次元ゲームに近いところから、亜リアル空間をつくろうとしている。

セカンドライフが普及し、充実していくならば、その実体はグーグルがつくる亜リアル空間に近づいてくる。
そして、その亜空間がリアルに近ければ近いほど、エコマネーでしかないリンデンドルの存在価値は低められていく。



英国式庭園をご存知だろうか…。

ル・ノートルに代表されるフランス式の幾何学的な庭園デザインと違って、英国式庭園は、自然を模すことをテーマとしていた。

英国式庭園に咲く花は野山に咲く花のようである。林があり、丘があり、小川があるが、それは自然に似せて作られているため、散策する人たちは庭園であることを忘れてしまう。

自然と庭園と見分けがつかなくなった英国式庭園。

予算をかけたにも関わらずその評価が得られぬ庭園設計士たちが何をしたかといえば、中国風の塔を庭園に建てたのである。

*

さて、セカンドライフには東京タワーのような巨大な塔がすでに登場しているという。

私は、それを「未来少年コナン」に登場するインダストリアの塔のようでもある。と感じる。

セカンドライフはインダストリアのような異空間であり、そこがユートピアでないなら、そこに存在する理由はない。
セカンドライフが拡大すればするほど、リアル空間に近づいていく。

そのとき、強大なコンペティターとして、グーグルが登場する。
中途半端にリアルに近いセカンドライフよりも、リアルに近いグーグルのほうが、迷子にならずに済む…。

そのとき、セカンドライフユーザーがセカンドライフに留まるとは、私には思えない。



インターネットの時代、「外部性」こそが一番重要な条件である。


レストランも、列車も、劇場も、定員を越えた人数が集まれば、すべてのユーザーが不利益を蒙る。

だが、インターネットはそうではない。

外部性こそが、インターネットが提出する最大の要件であり、それは、いかなる格差も選民主義も合理化しない究極の理念である。

もし、インターネット上に存在するにも関わらず、外部性を備えていないツールだとするならば、運営者・ユーザーの心理の底に選民主義が潜んでいることを、我々は気づかなければならない…。

勿論、「所有の競合性」と「所有の排他性」というネットビジネスの要件をセカンドライフは果たしている。だが、それは旧来の概念でしかない。

07sponta
posted by スポンタ at 04:53| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月30日

告知:東京財団:玉村豊男氏と御厨貴氏の対談イベント。

歌川令三氏のジャーナリズムの「それから」研究会でお世話になった、東京財団事務局の方からメイルがきた。


お世話になっております。

お願いがあります。
6月6日(水)18:00〜20:00に「東京財団フォーラム」というイベントを開催します。
玉村豊男(エッセイスト)と御厨貴(東京大学教授)の対談という、
これまでの財団の系統と異なるテーマのため、
参加申し込み者が予想を下回っております。
できましたら、中村さんのブログ等で呼びかけていただけないでしょうか?

当財団の告知URLは下記のとおりです。
http://www.tkfd.or.jp/event/detail.php?id=27

よろしくお願いします。


とのことである。

6月6日ということであるから、雨がザーザー降って、三角定規にひびいって、アンパン二つ、豆三つの日である。

私は、御厨氏の文脈を知らないので、なんとも言えぬが、テーマは、「安全・安心と科学技術研究」とのことである。

玉村氏はテレビによく出ているし、御厨氏は、TBSの長寿番組「時事放談」の司会者に最近なられたという。



さぁ、この研究テーマのするどいネーミングに気づいてみよう。

それは何かといえば、「安全・安心」である。

ここに21世紀の日本人が対峙している重大な問題がある。

それは何かといえば、「安心」が「安全」を脅かしているのである。


小学校2年。我娘は化学物質過敏症となった。

そのことはライブドアの記事としても知ることができる。

化学物質過敏症の専科を設けている北里大学の医師は、明確に学校環境が原因として、化学物質過敏症が起きていると断言した。娘のような症状がいると全校生徒の1/5は、なんらかの健康被害を受けている。と、医師は警告を鳴らす。

その事実を知った我妻は、学校環境の改善のために、学校関係者や役所関係者、政治家など、さまざまな人たちとコミュニケーションを試みた。
だが、学校における化学物質過敏症の発生を、誰もが認めなかった。

つまり、化学物質過敏症を専門とする北里大学の研究者の報告を、公共機関は退けたのである。

そのようなことがまかり通っているのが、日本の現実である。



日本がおかしくなったのは、薬用石鹸が販売されるようになってから…。


北里大学の医師は明確に指摘する。

曰く、清潔にすることと、除菌することは違う。

除菌されたという異常な状態が継続することにより、化学物質過敏症を誘発しているということかもしれぬ。

*

「安心」を求めることで、「安全」が脅かされている。

言い換えれば、安心な環境でいることが、固体の耐性を弱め、結果として、固体の安全を脅かしているのだ。




時間が許せば、イベントに参加してみよう。

「安心」と「安全」。

それが対立概念となる。なんとも複雑な21世紀の日本であることに、気づかなければならない。

07sponta
posted by スポンタ at 17:50| 東京 晴れ| Comment(1) | TrackBack(1) | リアルウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アルゴの時代24:グーグルを使ったインターフェイスを目指せ。

インターネットが只見のメディアだと思っている時代は、すでに終わっている。

そのことを理解しないと、インターネットの今後は予測できない。

そして、インターネットで対話が成立していない。などと、嘆いてはならぬ。極めて屈折した形で、対話は成立している。




NHK・クローズアップ現代によれば、電子マネーは便利なメディアだが、それを使うと履歴が残り、消費者動向がマーケッティングに利用されるのだという。キャスター嬢は、それが不気味な世の中だという。
将来、店員から、自分の購買履歴を指摘されるのが、恐ろしい感じがする。…と。

だが、そうなのだろうか…。

私は、日本新聞労働組合連合のイベントで、幻想の市民参加型ジャーナリズムを「ネットは個を抹殺する」と改題したプリントを5冊用意した。そのうち、3部が売れたのだが、誰が購入したかは分からない。
それをして、不気味などという必要があるのだろうか。私は、購入してくれたことに感謝するとともに、彼らの個人情報を知りたいと思う自分を傲慢だと感じる。

※ 会場で、購入していただいた方、ほんとうにありがとうございました。プリント機の調子が悪く、ローラーの汚れがでている部分か数箇所ありますが、読むことに支障はないとの判断でそのままにしました。ご容赦ください。


*

電子マネーの利用者は、マーケットのアンケートに無料で協力している。
電子マネーの利用規約は知らぬが、個人情報を利用することが無限に許されているのだとしたら大問題だろう。
集団情報であればいいという解釈も、妥当性を持たぬだろう。
個人情報でなくても、地域という集団情報の特性がデーター的に明示されることは、「差別社会」の始まりともいえるからだ。
たとえば、インスタント食品の消費量が高い地域があるとしたら、それは、何らかの階層と関連付けてデータ処理されるに違いない。

*

私は、そのような構造を批判しているのではない。
使用者は、電子マネーの利便性の対価として、購買データーを提供していることを認識しなければならない。
それをこそ、指摘したい。



では、インターネットは…?

インターネットの利用者であることも、只見ではない。
それは利用者の集団がマスになればなるほど、マーケット情報の商品価値が上がる。
つまり、検索結果とはマーケティング情報と等価。
マーケッティング情報をネタに大きな商売をしているのが、グーグルである。

インターネット利用者がクリックすると、ページビューに影響し、そのページの重要度判定の要素となる。
ページ作成者はリンクを巡らすことで、ページ相互のヒエラルキルを提示する。

そのような作業が無償でグーグルのために行なわれているともいえるのである。

勿論、利便性という対価を閲覧者・ページ制作者は得ている。だが、それが妥当な報酬かどうかは個の判断によるだろう。


ラルフ・ネーダー氏は、「情報は民主主義の通貨である」といったが、カード時代になり、通貨が情報になっている。

その情報は、金額というコンテンツに購買履歴というメタタグがついてやり取りをされている。

その通貨コンテンツたちが循環する世界も、ひとつのアルゴリズムといえる。





それだけではない。

最近、私がシーサーブログに移動した理由は、その自由度を評価したものである。

プリセットなアクセス解析は次のようなものである。

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・ページ別
・時間別
・リンク元
・検索エンジン
・検索ワード
・OS
・ブラウザ

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そして、昨日、「なかのひと」に登録した。

その分析によれば、以下のドメインから、私のブログへのアクセスがあったという。

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早稲田大学(3) 毎日新聞社(1) 大塚商会(2) 類ネットワーク(2) ライブドア(1) 東京農工大学(1) 協同広告(1) 新潟ドメイン(1) 九州大学(1)

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さて、このデータを公開していいのか、それとも、個人が秘匿すべきなのか。
極めて、判断に迷う。
とはいえ、そういうことも分かる時代なのだということは、ネット者が知っておくべきとのことで、今回は公開することにした。

勿論、東京農工大学からアクセスがあったとしても、生協の白石さんからのアクセスではないし、協同広告からのアクセスでも、時事通信の湯川さんが出向いていて、私のブログにアクセスしたのかもしれないのである…。

因みに、私は我家からアクセスしているが、我家が検索結果にあるのではない。
ドメインを突き詰めて聞けば、それも結果に反映できるのだろうが、それをしないという倫理が働いたのだろう。



真正性・確度は分からぬが、ページビュー(ページ閲覧)数とユニークユーザー(訪問者)数しか知ることができなかった時代とは、大違いである。

ページ別分析では、過去記事で興味を持たれた物が分かる。
時間別では、どういう人たちが見ているかが、予想できる。12時にページビューが上がれば、会社員が会社で閲覧していることになるだろう。15時以降に閲覧している人たちが多ければ、比較的自由な職場かもしれない。
23時以降に見る人は、プライベートで見たい人。

リンク元分析は、リンクが貼られたページが記載されている。

その多くは各種検索サイトのページだったりするが、中には個人サイトのリンクもある。
そして、昨日は、MIXI上に、リンクを張っている方がいらっしゃった。

MIXI上の日記には、「分からない」との苦言と、タイムテーブルがないという指摘。
私は、その日記に書き込んだのだが、すると、ご当人から、次のような返答があった。

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「情報のインターフェースをどうするかといった議論は今年末から来年にかけて様々な形で表出するのでしょうが、そのゲームにメディアの中のひとが参加するのかは見物だと思っています。」(Pさんのコメント)
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す、するどい…。

私はかねてから、「メディアの時代が終わり、P2Pの時代がくる」と、提言し続けてきたが、それは、つまるところ、「言論メディアのインターフェイス化に過ぎぬ」。

私は、「個の発言はユング的な集合的無意識の言語化である」とも言ってきたが、「発言とは、コミュニティーの外部とのインターフェイスとして、自らを位置づけることである」。



そして、その気づきは、「グーグルはインターフェイスに過ぎぬ」という分析に直結する。

その事実は、グーグルの膨大なサーバー群にも関わらず、グーグルが評価されるのは、インターフェイスに過ぎぬ。という事実も見せてくれる。

ならば、私が推論している「日本型ヒューマン検索エンジン」は、グーグルの膨大なサーバー群に対抗する必要はないのである。

「日本型ヒューマン検索エンジン」は、グーグルの検索結果をリファレンスすればいい。グーグルの精神は、それを拒むことは許されない。



先のエントリーで、「日本型ヒューマン検索エンジン」のための重要なリファレンスはすでに、ネット上に誕生していると、指摘している。それらの長所をいかし、それを統合することで、新しいツールは生まれる。

MIXI上のP氏は、「インターフェイスに関する議論は、年末頃には始まる」と、推測されている。
私も同感である。

そして、メディアではなく、インターフェイスを整えるに過ぎぬ作業だと悟ってしまえば、3年〜5年で、日本型ヒューマン検索エンジンが登場すると確信する。



グーグルインタフェイス論で、この項は終わりにしよう。

積み残しは、以下。

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【日本型ヒューマン検索エンジンの重要なリファレンスたち】

・ソシアルブックマーク
・リモートタグ
・セルフブックマーク
・オールアバウト
・ウィキペディア
・ニューシング
・アレクサ
・なかのひと
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そして、今後語っていくのは、

・「対話を継続するために何が必要か(クラスター論)」
・「屈折した形とはいえ、すでに成立しているネット上の対話」。

私がこれから何を語り、何を指摘するかは、大概のネット者ではあれば、この項目を見ただけで理解するだろう。
ま、私が発言する前に、ブログなどで語ってくれれば、私がキーボードを打つ手間も省けるし、その言論をもとに、対話が始まる…。

そのようなことを期待して、予告編的なものごとを書いてみたりする。

07sponta
posted by スポンタ at 08:29| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月29日

アルゴの時代23:グーグルに対抗するために、新聞人が確認しておくべき現状。

グーグルの欠点は、二つあると指摘している。

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【グーグルの構造的な欠点】

1.クローズド・ロボット検索エンジン

2.コンテンツの加工性を勘案しないことで、コンテンツメーカーがコンテンツに君臨することを許していること。
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私は、5/25に日本新聞労働組合連合のイベントにパネリストとして参加し、「グーグルに対抗できるのは、日本の新聞人である」と強説したが、公平を期すために、現状の新聞の欠点も指摘することにする。


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【ネット時代に露呈した新聞の欠点】

1.合理性のない・恣意的な意図に基づく、コンテンツの重要度のタグ付けするとともに、その所作を読者から隠蔽してきたこと。

2.セルフ・タギングとでも言うような、自分が作ったコンテンツに自分で「価値が高い」のタグをつける作業を繰り返してきたこと。

2.コンテンツの加工性を勘案しないことで、コンテンツメーカーがコンテンツに君臨することを許していること。

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私は、いまのままの日本の新聞人たちが、そのままの意識で、グーグルに対抗できる検索エンジンを構成できるなどとは思っていない。

現在の新聞の欠点を欠点として自覚し、それを乗り越えていく意志が新聞人たちにあるならば、グーグルも越えることができる。との可能性を語っているに過ぎぬ。



私の長年の読者であれば、私が市民参加型ジャーナリズムで体験したことを憶えているだろう。
それを確認のために、現在の視点から述懐するならば、以下になる。

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1.ライブドア・パブリックジャーナリズム:

このメディアの運営者は、既存メディアを批判・対抗することを第一とした。市民記者を募り、メディアを形成するならば、市民記者との対話・合意の形成が不可欠であると私は考えているが、彼らは、そのための努力をしなかった。
運営者たちは、既存のメディアなど、エスタブリッシュメントを批判・論難するための自らの地位を築くために、市民記者たちを自らの周囲に配置したに過ぎぬ。
これは、オーマイニュース・韓国版でも同じ構図のようだ。



2.JANJAN:

このインターネット市民記者新聞の運営者たちには、少なからず市民運動・市民言論の活動家が含まれている。
彼らもまた、自らが言うことを目標に参加しており、市民記者との対話・合意の形成の努力を行なっていない。そして、市民記者たちの国語力の欠如を根拠に、自らのプライド・優位性を保とうとしていた。
関係者の一人であるテレビマンは、JANJANのアイデンティティーを「非営利的であること」と定義した。だが、投資者がいて、専従職員がいる以上、非営利的であることなど無理である。
私は、ステークホルダー(利害関係者)という語を使う。その視点からみれば、非営利(非経済)的の語に価値はない。
なぜなら、市民運動家・市民活動家は、非営利かもしれぬが、過去の自分の言論の奴隷であって、非営利でありながらも、ステークホルダーを持っているからだ。
考え方を変えれば、お金で縛られている言論者よりも、思想で縛られている言論者の方が、たちが悪いとも思えるのである。



3.オーマイニュース日本版:

韓国で翳りの見えたオーマイニュースが、人気テレビキャスターを編集長に迎え、鳴り物入りでスタートした。
オ・ヨンホ氏が、市民記者たちには日常の瑣末事を扱わせ、政治などの事大案件は専従者によって行なうことを恥じぬという。
そこには、既存のジャーナリスト的な意識があり、それは市民蔑視にもつながっていると私は感じている。
オーマイニュース日本版のスタート前に、プロ記者たちが選んだ取材場所の選定が、このメディアの行く末を象徴的に語っていた。
ひとつは、ドイツワールドカップであり、もうひとつは、沖縄であった。たしか、編集長氏は、中東の紛争地域も取材したいと抱負を述べていたと記憶する。
派手な海外イベント。戦争事大主義…。それらの情報に重きを置くことは、市民生活の軽視であると、私には感じられた。
そして、運営者たちは、「感情で記事を書くこと」を進め、「物語」することを肯定し、「スクープ」を求めた。
それらは、エンタテイメントとしてのニュース・娯楽でしかない。民主主義の重要なリファレンスのひとつである世論を紡いでいくためのジャーナリズムとは無縁のものである。
私は、「固有名詞がないと情報としての価値を有さないものを、ゴシップである」と、定義している。
オーマイニュースは、感情的なイエロージャーナリズムと、ゴシップを、一切否定しない。
そのような場所に集うことが、健全な市井人の所作であるとは、とうてい思えない。
「オーマイニュース日本版で市民記者になった人たちは、2ちゃんねるの論争に負けた人たちである」との憶測があるが、それが当を得ていると、私は感じている。



4.ダン・ギルモアのバイオスフィア:

ダン・ギルモア氏は、IT関連の有名コラムニストだという。
彼は、ネット上で市民記者メディア・サイトをつくっているが、一切の編集システムを持たない。
その理由は、編集をすると、コンテンツに共同責任が発生し、アメリカが訴訟社会であることを考えると、そのような危険な橋は渡れぬ。というのだ。
英語のサイトのため、私がそのサイトの内容をどこまで把握しているかどうかは疑問だが、私の見る限り、ギルモア氏は、作文教室をしているに過ぎぬ。そして、もうひとつの特徴は、他者をレポートすることを前提に市民記者を捉えていることだ。
日本の市民記者新聞では、0次情報ともいうべき当事者発信が最良の物。もしくは、既存メディアにはできない、市民記者サイトの差別化項目と考えられているが、彼は、そのようなことは考えていないようだ。それこそ、日米の差かもしれぬ。
個人運営のサイトだから仕方のないことなのかもしれぬが、コンテンツに編集的に関与しなくても、メディアに掲載しただけでも、責任を問われるときは、問われる…。
それは、2ちゃんねるの西村博之氏が多くの訴訟案件を抱えていることでも明らかだし、今回のDiggのHD-DVDのリージョン外し暗号の事案でも同様だ。
西村氏やDiggの運営者たちと比べると、ダン・ギルモア氏の矮小さが印象づけられる…。

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これらの経験から、私が得たものは何か…。

第一は、
メディア型コミュニケーションは、外圧を受けるということ。外圧は、コンテンツのみならず、メディアの存亡さえ脅かす。
ならば、メディア型コミュニケーションを目指すことはやめ、P2Pツールを目標とすればいい。

つまり、サイトではなく、検索エンジンという結論である。

*

第二は、
メディアに対するルサンチマン(怨念)を越えること。

*

第三は、
「ものを言う人」の固有のバイアスを逃れること。

*

第四は、
市井人の視線・基点を軽視しないこと。

*

第五は、
センセーショナリズム・ゴシップと決別すること。



第一項は、検索エンジンをつくろうということ。

それ以下は、システムではなく、文化を語っている。このプロジェクトの根幹は、実は「並存する多様なアルゴリズム」ではなく、コンテンツディーリングの新しい文化を育成・醸成することにあるのです。



さて、過去に決別ができたところで、次回は、重要なリファレンスとなるネット上のサイトについて述べていく。

否、過去との決別は一朝一夕にできぬので、それは各個の努力に任せるとして、次に行こう。

次回は、より明確なヒューマン検索エンジンのイメージを提出する。

重要なリファレンスとなるのは、ソシアルブックマークであり、オールアバウト。
それぞれの欠点を指摘しながら、それらが融合したものとして日本型ヒューマン検索エンジンをイメージさせる。

いままでの言論を踏まえて、読者が、それぞれにイメージしていただけると嬉しい。

そして、私の中でイメージされているものと、閲覧者の中でイメージされるものが同じだと嬉しいし、違っているともっと嬉しい。

それこそ、対話と気づきの大いなる世界である…。

07sponta
posted by スポンタ at 04:28| 東京 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月28日

アルゴの時代22:グーグルを越えるインターネットツールをつくろう。(本音と建前という日本的2元論)


霞ヶ関は、「国産グーグルを作ろう」とのスローガンで動いているという。

私は、池田信夫氏が主催するイベントで、「情報大航海時代」と題する通産官僚の講演を聞いたが、話の内容も、そして、その資料も検索エンジンではなく、ポータルサイトのデザインだった。

ま、予算申請から実行までの数年のタイムラグを考えれば当然のこと。

だが、ポータルエンジンの枠組みで、検索エンジンが作れるはずもない…。

*

そして、何よりも、いまさらグーグルのビジネスモデルを追ったところで、規模においても、ディファクトスタンダードになっている事実においても、勝ち目はないことは明らかである。

ならば、どうするか…。

勝利の方程式は明解である。


アメリカ社会の特徴を活かしたグーグルに対抗するには、日本社会の特徴を活かしたツールをつくればいい。




20世紀のアメリカ社会が世界を制したのは、フォードモータースに始まった大量生産だろう。だが、それは、労働者と資本家の亀裂を広げることになった。
私が学生だった頃、「アメリカは人種のるつぼ」と形容されていた。だが、いまは、「サラダボウルの中身」だそうである。コールスローのように、細かくまざったサラダではあるまい。きっと、内容物がざくざくしている。そんな塊がいくつも入っているようなイメージだ。

改めて指摘するまでもなく、グーグルはアメリカのエリートの所産である。

ここでも、自動車企業の経営者と労働者と同じ、階層的な断絶がある。
それはいうまでもなく、グーグルユーザーたちの存在である。
アメリカの無名氏たちは、グーグルを使っているつもりだが、無料でデータを提供させられているに過ぎない。



一方の日本はどうかといえば、ブログの時代だという。

世界的にみても、日本のブログ運営者の割合は特筆すべきもので、それは、IT化めざましい日本の過渡的な優勢ではなく、「土佐日記」に始まる日記の国の伝統ではないか。と、私は思っている。


日本人は何故、日記を綴ってきたのか…。

その理由は、漢文たる公式文書では、ありのままの現実・自らの心の有様を伝えることができぬから…。

私が思いをはせるのは、最近つとに言われることがなくなったが、「本音と建前の文化」である。


*

私は最近、勝海舟の「氷川情話」を読んだが、100年後を生きる私たちにも、重要なリファレンスとなる日記であった。

ちっぽけな勝利でも、建前の世界では、大げさに喜ばなければならぬ…。
勝は、日清戦争の勝利で遼東半島を獲得したことに狂喜乱舞する国内に苦言を呈している。中国人は、伝統的な地主制度さえ存続できれば、ちっぽけな半島の領有権など、どうでもいいと思っている…。

勝の中国に関する分析は、現在にも当てはまるのかもしれぬ。
最近、問題視される、無責任な生産物を中国が世界にむけて輸出していることも、労働者と奴隷の区別を難しくする社会的制度がいまだ存在することの証明かもしれない。

*

日本人にとって、日記とは、日常を語ることであったが、それは本音を語ることでもある。

それは、公式文書が漢文で書かれたことにより、より明確になる。

思えば、紀貫之などは、紙の上で女装することによって、本音を語ったともいえる。



そこで、インターネットである。

インターネットが本音のメディアだという事実に、誰も反論できぬ…。

だが、その中にも建前の言論が少なからず存在する。
…炎上するのは、建前言論が不用意にコメント欄を設けた場合が殆どではないか。


インターネットは、玉石混交であり、多種多様な情報が溢れかえっているという認識がある。

だが、それをまず、「本音と建前」という二つのカテゴリーに分けてみることはできないだろうか。


「本音と建前」という視点によって、情報は二つに別れるとともに、二つの情報がひとつの対立軸で結ばれることによって、扱いやすくなる。

つまり、「本音と建前」という二項対立したものをテーマで束ねることで、ネット上に存在する情報の嵩(かさ・量)は半分以下になる。

そして、二項対立に関係しない情報は、情報としての重要度が低いことになる。

いまは、公式・建前情報と、2ちゃんねる他の本音情報が対照されていない。だが、「本音と建前」という視点で、分類するならば、ネット上の混乱はかなり軽減すると思えてならない。

*


そして、その作業の中で、ネット上の発言者も、「建前」的情報発信者と「本音」的情報発信者という、タグがつく。

それも、また、ネット閲覧者たちの情報利用に利することになる。


真実・真理に代わって、建前・本音を視点にすることで、バイラルマーケッティングも洗礼を受け、ネット空間はずいぶん、整理されるのではないだろうか。



そして、新聞・新聞人である。

新聞は、いままで、「本音」を語ってきたのだろうか。


もし、新聞が「本音」を語ってきたならば、いまのように、ネット者から「マスゴミ」などと呼ばれることはなかっただろう。

ならば、まず、新聞・新聞人が「本音」を扱う。
そのことを始めなければならない。


勿論、新聞社には新聞社の事情(ステークホルダー)があるのだから、「建前」を語ることをやめる必要はない。

「建前」を語る同じ平面で、「本音」を語ればいいのである。




インターネットが多様な言論を提示することは明らかだし、新聞がひとつの言論を提出するならば、必ず糾弾される。

ならば、新聞が「建前」と「本音」という最低ふたつの論調を持つことも、許容されるに違いない。


…そう。思っている。

07sponta

今後も、「建前」的情報は、ヒエラルキル型の組織が提出しつづける。

それを、インターネット上の「本音」のアルゴリズムが、洗礼するのだ。

ただし、「本音」が「建前」に必ずしも勝つとは思っていない。

フーテンの寅の名セリフではないが、「それを言っちゃ、おしまいだよ」ということはある…。

*

Diggの危機にしても、「本音」が「建前」に負ける例として、ぜひとも乗り越えるべきものだと思っている。


posted by スポンタ at 15:35| 東京 曇り| Comment(2) | TrackBack(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月27日

アルゴリズムの時代21:渡辺恒雄氏に会いたい…。「敵はグーグルにあり」。

2007.5.25に、日本新聞労働組合連合のシンポジウムにパネラーとして参加した。

出席者は、歌川令三先生(毎日新聞OB)、湯川鶴章氏(時事通信社)、森健氏(フリージャーナリスト)、そして、私・スポンタ中村である。

このメンバーは、歌川先生が東京財団で行なった「それから研究会」の構成員たちである。
メンバーには、他に佐々木俊尚氏がいるが、今回は不参加となっている。

この研究の成果は、7月に出版される予定で動いている。


さて、今回のパネルディスカッションのために、新聞・ジャーナリズムを考える過程でさまざまな「気づき」があった。

その最大なものが、アルゴリズムである。

アルゴリズムを簡単にいえば、意思決定・代表選出の仕組みである。

何故、アルゴリズムに注目するかといえば、アルゴリズムはネットの覇者・グーグルの特徴だからである。



【三段論法】

インターネットに対抗する最善の道は、インターネットの覇者に対抗することである。

ならば、新聞・新聞人は、グーグルを最大の敵として、対策を立てるべきである。

敵を知り、己を知れば百戦百勝は、孫子の兵法である。

グーグルの欠点は、2つある。

ならば、その2つの弱点を、新聞・新聞人が克服すればいい。

ただし、その2つの弱点は、新聞・新聞人も無縁ではない。そこが難しいところである。


さらに言う。



グーグルの欠点は、「非公開単一アルゴリズム」「情報の非加工性」である。

新聞・新聞人のグーグルに対する優位点は、「情報をサマライズ・フォーカス・対照すること」である。


ならば、グーグルを追いかけるのではなく、グーグルと戦うべきなのだ。

勝算は少なからずある…。



上記が、私がパネルディスカッションのために、1カ月かけてブログで論考してきたことの結論である。

論考の中で、アルゴリズムと出会い、最後にメディアジャムを知った。
だが、そのようなものは単なる分析にすぎぬ。

シンポジウムの参加者たちである新聞人が、グーグルに対抗する。

それこそ、問題を孕みつつすすんでいるロボット検索の時代を終焉させることになるのだ。


たしかに人間が情報を扱うことにも弊害が予想される。

しかし、隠蔽された問題よりも、顕在化された問題の方がまし。
…誤読と指摘される問題は、実は誤読されていないのと、同じ論理である。


*

昨夜も、「アイロボット」というロボットたちが人間に反乱するSF映画がオンエアされていた。

ロボットの群れをグーグル。
それらに果敢に立ち向かうヒーローのウィル・スミスを新聞人とイメージすることもできる…。



さて、インターネットは、Yahooに象徴されるポータルサイトの時代から、Googleに代表される検索エンジンの時代に移ったといえよう。
その一方で、MIXIというコミュニティーサイトがある。

だが、それらにメディアがあるのかといえば、極めて疑わしい。ほとんどはリンクやエンベット(引用)である。

ならば、インターネットを代表するビジネスモデルたちも、ネットを使った情報ハブに過ぎぬと、看破することができる。

ハブは所詮、ハブに過ぎぬ。

オランダにはスキポール空港というハブ空港があるが、そこは通過点に過ぎぬ。スキポール空港が旅客を集めようとも、彼らの目的地が、パリであり、ロンドンであり、ローマことに変わりはない。

*

メディアとは、媒体であり、ある意味、料理を盛るお皿に形容できる。

情報ハブとは、料理が皿の上に盛られた状態でやりとりをされる場所だろう。

レストランのように、ウェイターが料理を運んでくるか。

ビュッフェスタイルのように、コーナーに取りに行くか。

中華料理の円卓の回転台(レジースーザン)のように、ぐるぐるまわすか。

回転寿司のように、ぐるぐるやってくるか。

*

いま、インターネットは、量の時代である。と指摘し続けている。

それを上記で形容するならば、

お客の満足度に一番直結する料理の味を一切勘案せず、

レストランスタイルか、回転寿司スタイルか等というシステムばかり気にしている…。

寿司が廻っていることで喜ぶのは、寿司の味を吟味できぬ、こどもだけである。

そんな、料理人の腕を勘案しない。異常な状況…。

それが、インターネットが量の時代であるということである。

*

システムよりもコンテンツ…。

それがこれからのインターネットに求められる時代になっていく。

そして、コンテンツの特質にしたがって、システムが設計される時代になる。

いまのインターネットは、システムの設計に牛耳られてコンテンツの品質が無視されている状況なのである。

*

私は、巷間アルファブロガーと言われる人たちの殆どにコメントを挑んできた。

だが、一切の対話は成立していない。

その状況をして、湯川氏は、「スポンタさんは、悪役ブロガーだから…」と言う。

だが、ほんとうに悪役なのだろうか。

私には、システムを語るアルファブロガーたちと、コンテンツを語る私との乖離があるに過ぎぬと感じている…。



そして、システムの時代が去り、コンテンツの時代がやってきたとき、一番必要とされる人材は、システム屋という理系人間ではなく、コンテンツ屋という文科系人間に違いない。


人類の歴史上、数学は数字しか扱うことが出来なかった。

だが、現代のハイテクノロジーは、数学を、人類最高最大の記号である言語を扱えるようにした。

そんな時代に求められる人材の質というものも変わってくる。

必要とされるのは、理系的精妙さを持った文系人間である。


そして、そのような人員が、いま、どこに多量に存在するかといえば、それは、新聞業界以外ない。

「情報の料理人たる技能習得者が新聞人たち」であることは、誰も依存はないだろう。



さて、基調講演に先立って挨拶をされた主催者の方は、読売新聞の渡辺恒雄氏が、「新聞がネットを従属・吸収させる」との意志を新人研修の会合で挨拶されたというエピソードを紹介された。

紹介された方は、新聞経営陣の不理解と傲慢を印象付けようとしたのかもしれぬ。

だが、読売新聞のトップであるナベツネ氏の意志に、私は大賛成である。

そして、大いに宣言したい。

もし、今回の参加者の中で、渡辺氏とコネクションがある方がいるならば、私が考える「新聞がネットを従属・吸収させる」ための計画を披露したいと、御大に伝えて欲しい。

渡辺氏がブログを持っていれば、私は直接コメント欄で要望するが、難しいのかもしれぬ。

是非とも、私の大いなる要望が渡辺氏のお耳にはいることを祈っている。

いまこそ、新聞労働者と新聞経営陣が手に手を取り合って、ネットの欠点を凌駕する新しい情報システム(メディア・ツール)を構築しよう。

労働組合が、新聞社のヒエラルキーに並存する有効なアルゴリズムだとするならば、それが、今回のパネルディスカッションの結論である。

それは、そんなに難しいことじゃない。

何故なら、インターネットは固定のパイを争う競争ではない。

無限の地平を開拓することなのだから…。


07sponta

追記:

私は、渡辺恒雄氏のような言論者を悪いと思っていない。セリーグのオーナー会議にしても、他のオーナーが、彼の存在に気おされて自説を主張しないことが問題だと思っている。

それはオーナー会議の運営システム・アルゴリズムの欠陥であり、自説を強説することは悪くない。
彼のような確固たる個の存在が、21世紀のすべての個に求められている。

一切の利害関係を持たぬ無名・ネット者である私と、新聞界の大立者の会談・企画・プロジェクトが始まるならば、新聞の未来もまったく新しいものになると期待してやまない。


リソースは彼。戦略は私。

敵は、グーグルである。


少なくとも、敵が明確ならば、敵の弱点を流布することに価値はある…。

インターネットの時代は、個が傍観者であることを許さない。

新聞労働者諸氏のコミュニケーション力に期待するとともに、吉報を待つ。

よろしくお願いもうしあげます。
posted by スポンタ at 06:33| 東京 晴れ| Comment(9) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月26日

アルゴリズムの時代20:特権的発言者が自戒するナニサマ感…。そして、シンポジウムというフラットなアルゴリズム。

昨日は、日本新聞労働組合連合のシンポジウムにパネラーとして参加した。

出席者は、歌川令三先生(毎日新聞OB)、湯川鶴章氏(時事通信社)、森健氏(フリージャーナリスト)、そして、私・スポンタ中村である。

このメンバーは、歌川先生が東京財団で行なった「それから研究会」の構成員たちである。
メンバーには、他に佐々木俊尚氏がいるが、今回は不参加となっている。

この研究の成果は、7月に出版される予定で動いている。



さて、私はいままで、一般参加で、市民参加型ジャーナリズムや、ネット、IT系のシンポジウムなどで質問してきた。

私のような知名度なものでも、会場からの質問の場面で、自己紹介をしてから質問をすると、会場がザワザワとする…。いつも、その雰囲気に自分の肉体に沸き起こる屈折した優越感を楽しんでいたものだった。

*

だが、今回は違う。

発言は複数回与えられ、参加者たちも、私の出自を予め知っている。

そのような状況で、私がまず、発言する自分をどう感じていたかといえば、一言。

「何様?」

である。

会場で私の前にいるのは、北海道から沖縄までの新聞各社から少なからぬ交通・宿泊費をかけて集まった人たちである。

そのような人たちの貴重な時間を費やすために、私の言論の価値があるのだろうか…。

この気持ちは、私の心をずっと占領し続けていた。

「ネットは新聞を殺すのか」の湯川さんを見たよ。会ったよ。毎日新聞のOBの歌川さんに会ったよ。「グーグル・アマゾン化する社会」を書いた森健さんの話を聞いたよ。なら、参加者たちは、疑問の余地もなく、満足して会場を後にするだろう。

だが、私の場合は、「スポンタ中村って誰?」 「知らないよ」 「ブロガー? そんなの誰でも書いてるじゃない」
で、終わりである。

そこに何も価値はない。

だが、だからこそ…。

なのだ。

*

私は、「固有名詞がないと、価値を得ない情報はゴシップである」と定義している。


ならば、言論に言論主体の属性は関係ない。

言論において重要なことは、言論の中身であり、それは、個の属性の程度によって、評価が左右されるものではない。

*

そして、「差分のない個どうしのコミュニケーションに価値はない」と指摘しつづけている。


つまり、相手が知っていることを知らせることで、相手に安心を与えることに価値はない。

相手が、非言語レベルで感じていたり、具体的な事象を知るばかりで、それを統合し、ひとつの文脈にまとめ切れていないことを、相手の思考の中で、まとめさせる。そのキッカケとなる言論を提示することをすべきだと思う。

だが、その「寸止め」的な言論提示の按配はきわめて難しいのである。



今回のシンポジウムのテーマは、「ネットは新聞に何を突きつけているか」である。

パネラーの構成を見ても、ネットの専門家はいるが、ネット者は私だけ。ならば、自分こそ、ネットが新聞人の人たちに突きつけなければならぬ。と、その点にのみ、スポンタ中村の存在理由をみつけて、会場に存在することにした。

*

シンポジウムの言論については次回以降に譲るとして、シンポジウムというアルゴリズムを考えてみよう。

まず、講演者が壇上を飾る。

これは、ブログでいえば、記事・エントリーということになるだろう。
講演中は、参加者は質問があったとしても、質問することができない。講演者がマイクを持っているということは、そういうこと。参加者が、否定意見・反論・重要度の誤認の指摘をしたくても、講演が終わるまで、その言説を強制的に聴かされることになる。

ブログだったら、読まないでもいい。斜め読みしても、反駁することはできる。無視してウインドウを切り替えることができる。だが、講演はできない。

これは、情報発信者にとって、かなりきつい状況である。

*

特権的発言者になったとき、思っていることが自由に発言できるなどと、勘違いしてはならぬ。


皇后陛下は、海外訪問前のインタビューで、「もし、できることなら、神田の古本屋さんで立ち読みをしてみたい」と仰られた。だが、本当にしたいことはもっと沢山あるに違いない。自らが経験した、結婚式にアルコールでの洗髪を強いられた皇室の伝統を、自分の嫁たちにはけっしてさせてはならぬと決意した皇后陛下である。東宮家との関係修復のために、やりたいことは沢山ある。だが、それを口に出せば、思わぬ憶測を呼ぶので、語ることができぬのである。

私は、皇后陛下が一番したいことが本屋での立ち読みなど。などという戯言は信じない。彼女が切に望むのは、家族たちの安寧・安逸である。それを言えないのは、特権的発言者の立場だからだ。

でも、皇后陛下が天皇陛下とおふたりで対話される場合は、特権的発言者ではない。
たしかに、おふたりで、神田の古本屋で立ち読みをしたいなぁ…。などと嘆きあうこともあるのかもしれぬが、真剣に対話される題材は、雅子妃殿下の健康であり、東宮家の心配に違いないと推察する。



考えてみれば、この特権的発言者という立場こそ、インターネットの洗礼を受けている最たるものなのだ。

巷間論じられる言論の多くは、「インターネットの時代に、特権的発言者はその優越性を失う。炎上はその現象例である」というもの。

だが、その論理は浅薄である。

*

ことの本質は、特権的発言者の権力が細分化される。それが、これからの時代である。
つまり、特権を与えられている項目以外のことを論じると批判・炎上する。


・ボクシングの亀田擁護論を展開した、モーグルの上村愛子氏。
・皇子継承問題に言及した、五体不満足の乙武氏

たしかに、専門家も不用意な発言をすればバッシングを浴びる。

だが、バッシングも丁寧対応しつづけるならば、対話に変わるのである。



今回のパネルディスカッションでの私も「カテゴリー限定付特権的発言者」である。
それは、新聞とネットに限定される。

では、私が何を話さなかったか。

それは、当日、午前中に日本テレビで見た「ラジカル」に出演していた国分太一氏の「オーラの泉」の江原氏評である。

(嫌いな人、興味がない人は、次の■まですすんでください。)
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曰く、
「江原さんは、ぼくの家の冷蔵庫の中身が見えるようなんです。冷蔵庫の奥の野菜が腐りそうだから、なんとかしなさい。といわれるですよ」

国分氏は、「江原氏・美輪氏を妖怪である」との前置きをしてはいたが、MCを筆頭として、それって凄いですねという感想で番組は進行していった。

私は、このエピソードを知り、「なぁんだ…」と、落胆した。そして、「オーラの泉」がけっして語らぬことを、社会悪の一つだと認識した。

たしかにかの番組は、スピリチュアリズムの普及には一定の役割を果しているが、誤解・批判されても仕方ない構造を持っている。

*

日本テレビのお盆特集「あなたの知らない世界」の新倉イワオ氏(笑点のシナリオ作家)は、霊能者には得意分野・専門分野があるのです。と、明言されていた。

私は、新倉氏の主催する「縁の会」で、藤田小乙女氏の講演に参加したこともある。また、新倉氏が推薦する霊能者の霊視も受けた。我妻は、その霊能者から、一目置かれる能力を持っている。

その影響もあって、宜保愛子に始まり、シャーリー・マクレーン、コナンドイル、シルバーバーチ、ユング、シュタイナー、チャネリング、般若心教、禅、鈴木大拙などを読んできた。

そのような思索の末に感じるのは、霊的能力は誰もが持っており、その霊的能力には霊格とでもいうようなヒエラルキーがあるということだ。

今生の問題は今生の問題でしかないが、輪廻転生の大いなる道(タオ)の中で、どのように意味づけされているかこそ、重要なのだ。

そのような視点・視座に立ったとき、冷蔵庫の中身を見るための能力が与えられている者に、価値を見出すことはできぬ…。

相手にとって重要な何かを言うことを目的に特殊な能力が与えられている。江原氏のカルマ(宿業)はそういうことだと思う。

しかし、それを冷蔵庫の中を見るために使ったとすれば、特権的能力の濫費。もしくは、限定的特権のレベルを示しているのである。

*

脱線してしまったが、「オーラの泉」につき、感情的な批判ばかりで、スピリチュアリズムの根本的な問題に言及する人がいないので、指摘することにした。

差分のある言論は、提出すべし。という、モットーにしたがったまでである。

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さて、当日のパネルディスカッションの進行は、極めて明確だった。
それは、パネラーの言論と立場が明確だったことによる。

それは、歌川先生と湯川氏のスタンスが「新聞が先細りになる」であり、

それに対して、森健氏は、「ネット上の新たなるシステムを構築すべき」というもの。

そして、私は、「グーグルの次の時代は、新聞人の時代である」と発言した。

そして、パネルディスカッションは、森健氏の、「ネットはそれほど怖がる必要はない」の言葉で締めくくられた。


私も、森健氏の意見に大賛成である。

彼の言葉は、私の思考の中で、「インターネットの不備。構築しなければならないシステム。醸成しなければならぬ文化は、数え切れぬほど存在する」というものに変質した。

とはいえ、新聞・新聞人が、恐怖する必要がないというだけのこと。

そして、グーグルの時代の次に新聞の時代がやってくるためには、いくつかの条件がある。

それについては、次回、「グーグルの次の時代は、新聞人の時代」として、エントリーをあげることにする。


07sponta
posted by スポンタ at 09:30| 東京 晴れ| Comment(2) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月25日

アルゴリズムの時代19:対話のアルゴリズム


本日は、日本新聞労働組合連合のイベントに参加する。

いままで、「多様なアルゴリズムの並存」が必要であると説いてきた。

そして、「対話の必要性」を強調してきた。

だが、対話について定義していないことに気がついた。



私はすでに、「差分のない個のコミュニケーションに価値はない」と指摘している。




他人の中に、コピイ&ペイストが専らなインターネットの時代において、「自分の言論を見つけて喜ぶ行為は自己満足でしかない」とも…。


つまり、どちらも、情報共有が可能な時代において、価値はないことを示している。


その意味でも、グーグルが、情報を生データ(Raw Data)としてしか扱わないこと。
つまり、発信された言論に一切の加工(サマライズ・フォーカス・対照)せずに扱うグーグルの限界も見えてくる。




*

ならば、グーグルが扱えないものを新聞・新聞人が担っていけばいい。

いままで同様に、新聞・新聞人が、中立・公正・原典主義のもとに情報を扱い続けるならば、グーグルの圧倒的な優勢は衰えることはない。

だが、新聞人たちが「グーグルがやり残している作業」に気づき、その作業のエキスパートになれば、グーグルの大攻勢に一矢を報いるどころか、形成は逆転する。

「グーグルは、知っていることしか検索することはできない」が、「新聞は、知らないことを知ること」ができるのである。




対話とは、コミュニケーションの中で、自らの言論・他者の言論がサマライズ・フォーカス・対照されることである。

それをアルゴリズムとして捉えるならばつぎのようになる…。

差分のある個の間で、少なくとも数十回以上のコミュニケーションがあり、その結果、差分のある個どうしの言論がひとつに集約する。

それが対話だろう。

勿論、結論を導き出すにおいて、対話に参加していた個が離脱してもかまわない。
どちらにしても、変化することにおいて情報に価値を生むアルゴリズムである。



ネルソン・マンデラ氏の真実和解委員会の持っているアルゴリズムは、そういうことだと思う。

過去の出来事の真実性を追究するにおいて、かならずしも過去に戻る必要はない。

対話が健全に続けられるかどうかで、過去の真実性の確度というものが計られる。


かように、人間とはどうしようもなく、弱いものなのである。
posted by スポンタ at 08:30| 東京 雨| Comment(6) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月24日

アルゴリズムの時代18:情報発信者が情報に君臨する時代は終わる。

さて、明日は、日本新聞労働組合連合のシンポジウムである。

先のエントリーで、新聞人に求められているものは、「自らの提出したものがベータ版(未完成版)であることを認めること」と、「対話を継続すること」と指摘した。

昨日、お話をさせていただいたビジネスマンの方は、「仕事を楽しむこと」「自分の仕事に誇りを持つこと」が大切だと仰っていた。

では、新聞人の矜持が何かといえば、誰もが「事実、真実を伝えること」と胸を張るに違いない。


だが、この矜持のもと、映画ダイハードでは、記者は、「事実・真実を伝える」により、主人公の刑事を窮地に陥れる。
それだけではない。身近では、がん告知の問題。未成年に情報を与えるかどうかもそう。

戦時中の大本営発表にしても、自軍の劣勢情報が伝われば士気は落ち、戦死者が増加するに違いない。
そのようにして大本営発表は社会に是認されていたに違いない。

*

何故、日本・日本軍が戦争に負けたかといえば、官僚的なアルゴリズムが専横し、並存するアルゴリズムがなかったためである。それは、現在の霞ヶ関も同様であると、池田信夫先生も述べられている。

衆愚などという言葉があるが、優秀な人たちも衆愚な状態に陥ることがあり、それは個としての愚かさではなく、集団の愚かさであることを気がつかなければならない。


つまり、個の優秀さは、集団の優秀さを保証しないのである。

ここにおいて、私は公文俊平氏の智民論と明確な距離を持つ。



古い話であるが、田原俊彦が主演していた「サラリーマンびんびん物語」の萩原流行のセリフに次のようなものがあったのを憶えている。

駄目な会社には、二つのパターンがある。
ひとつは、馬鹿が仲良しごっこをしている会社。
もうひとつは、りこうが喧嘩ばかりしている会社。


仲良くするアルゴリズムと、喧嘩するアルゴリズム。それらを並存しないコミュニティーに未来はないのである。

*

今もって、「新聞人の矜持は、事実・真実を伝えること」と言って憚らぬ人は多い。

だが、人間は神ではないのだから、密室での出来事を知る術はない。

司法の判断が事実を保証しないことは、ロス疑惑氏の一連の出来事で、社会的な暗黙の了解事項になっているはずである。

なのに、「事実や真実を伝える」ことを職業人としてのプライドとして持つことを強いられてきた人たちがいる。

私は、新聞人の辛さを思ってやまない。

そんな辛さを解放してくれるのが、インターネットなのである。




さて、昨日11時からのニュース番組をザッピングしていたら、TBSでも、CXでもネットの話題だった。

NEWS23では、グーグルの経営者に筑紫氏がインタビューしていた。
番組では、天安門事件の画像検索ができぬことをとりあげ、検索結果に中国政府の介入を許していることを指弾していた。
グーグルの経営者は、これは仕方のないことであり、これからは透明性を高めていく。と言明していた。

スタジオのコメンターは、「グーグルは、アルゴリズムなのだから、アルゴリズムを追っかけていけばいい」と、指摘する。

筑紫の代役であるアンカーマンの膳場嬢は、「アルゴリズムはよく分かりませんが…」と、前置きをしながら、コーナーを〆た。

*

私は、アンカーマンたる人間が、番組の中で「分からない」と言う言葉を使う自由があるとは思わない。

また、番組の準備・打ち合わせ段階において、グーグルの最重要単語である「アルゴリズム」について理解できぬままに本番に臨むことが、許されていないことを理解している。

もし、彼女がほんとうに理解しないで、「アルゴリズムは分からない」と言うような知性の持ち主であれば、彼女の降板は必至であり、もしほんとうに理解できないでいるならば、それを「分からない」などと明確にするのは愚かだ…。

コーナーを最初から見ていないので分からないが、アンカーマンが「分からない」と言った以上、番組の中でアルゴリズムの詳しい説明があったはずもない。

何故、アルゴリズムについて詳しい説明がなかったかといえば、それを説明することが、グーグルの致命的な欠陥を指摘することになるからである。

あらためて指摘するが、グーグルはアルゴリズムという単語で、恣意的なランキング決定方法を隠蔽したのである。

グーグルは全数検査をしていない。その事実を「アルゴリズム」の一語は隠蔽し、肯定するのだ。




さて、もし、グーグルの経営者が言うように、「透明性が高められて」アルゴリズムの仔細が明らかになっていくのだろうか。

私は、そのようなことが起こるとも思っていない。

問題は、天安門事件のような、「誰でも知っている・合理性のある情報隠蔽」ではない。

問題は、「少数しか知らない、隠蔽に合理性のない情報」である。

*

対話の継続を示唆してきたが、それは、対話拒絶・拒否の合理性を追求することも、ひとつの対話であるとの含意もある。つまり、がん告知・青少年への有害情報・コカコーラのレシピなどは、情報を非公開にすることに合理性がある。つまり、パンドラの箱は、中身が分からなかったから開けられてしまったのである。中身について十分に対話すればパンドラの箱は開けられずにすむ。いまもって、核兵器を主兵器とした全面戦争は発生していない。これは、世界が、パンドラの箱を開けてはならぬという対話の成果である。

*

「少数しか知らない、隠蔽に合理性のない情報」…。

そのような案件が中国政府との交渉の中で続出しているはずである。ならば、透明性を確保することなどできぬ。



それはともかくとして、
仮に、グーグルがオープンアルゴリズムを確立したら、どうなるか。と、考えてみる。

その場合に明確になることは、先のエントリーでも述べたように、グーグルには、「オリジナル情報をそのままに扱う」という欠点がある。

P2Pがコミュニケーションの基本だとするならば、情報が伝播する中で、サマライズ(要約)されたり、フォーカス(焦点)されるのは当然のことである。

それを伝言ゲームと揶揄する向きもあるが、アメリカの俗諺「コミュニケーションは相手が決める」からいえば、必ずしも悪いことではない。


そして、そのような情報伝播の構造に背を向けることこそ、「コンテンツ発信者がコンテンツに君臨する」というアンシャンレジームなビジネスモデルにグーグルが属していることの証明でもある。



CXでは、アメリカのYouTube現象を取り上げていた。

イギリス首相は、アメリカへのメッセージにYoutubeを使った。大統領選挙のキャンペーンでは、各候補者がトレーサーという人たちを動員して、対立候補の揚げ足取りを行なっている。
世の中の如何なる不正もYouTubeに載ることによって、社会的な制裁を受ける。
そして、ネット者は「他者を嘲笑すること」を目的にYouTubeを覗いている。と、アメリカのメディア者は告発する。

だが、それは、フラットなYouTubeというリストで起きている結果に過ぎない。

YouTubeに起こっている負の側面は、フラットなリストの欠点であって、それがアメリカ社会の負の側面ではない。


YouTubeの構造は、フラットな場と極めて微小なクローズドなコミュニティーでできあがっている。

映像にはコメント欄があり、対話が成立する場合もあるが、ほとんどのクリップの寿命は数日なので、対話が成熟していく猶予はない。

唯一の例外は、Lonelygirl15のようなシリーズかもしれない。言及ブログ…

たしかにドラマではあった。
だが、作り物であったことが明らかになった今も、作品そのものに対する評価がなくなったわけではない。

情報を受け取った瞬間のネット者たちの感情・衝撃は、次第に変化する。
単なる怒りや義憤は、疑問・発信者の立場の理解・対話・考察・検証・対照などに向かっていく。

ネット君臨という特集記事で、毎日新聞がとりあげた、NHK職員がネット上でカンパをし、批判された事例などはそうだ。

2ちゃんねるのスレッドのコメントはすぐに1000を越え、スレッドは続いていく。
その中で、テンプレートという「まとめサイト」が作られ、粗放な言葉たちは体裁を整えられるとともに、発言者たちの言論は、サマライズされ、フォーカスされ、対照される。

そのようなスマートなシステムをYoutubeもブログも持ち合わせていないだけである。

*

2ちゃんねるのアルゴリズムとは、

1.スレッドを立てること。

2.スレッドにコメントを書き込むこと。

3.コメントの書きこみが1000を越えると、スレッドは有料閲覧になること。

4.新スレッドでは、見えなくなった旧スレッドを補完するために、継続スレッドにはテンプレート(雛形)という、いままでのスレッドの言論の経緯・要約を載せる。

5.スレッドの書きこみスピードで、スレッドの注目度・ヒートアップ度を図り抽出する2NNというサイトがある。


*

2ちゃんねるのテンプレートでは、冷静な分析が尊ばれ、テンプレートを肴に対話が起こりながら、ブラッシュアップされることも、珍しいことではない。

逆に、2ちゃんねるのテンプレートでは、特定のコメント者に利することは批判される。
ここにおいて、情報発信者が情報に君臨していないことが理解できる。

これは極めてスマートなシステムである。

*

大概の2ちゃんねる批判者は、テンプレイトを読まずに、スレッドの書きこみを読んで義憤に駆られるのだと思う。

それは、2ちゃんねるのアルゴリズムを理解しない浅薄な所作である。



CXの番組では、アメリカのメディア者が、これから何が流行るかは分からぬし、それが分かれば億万長者であると発言する。

そして、日本のスタジオは、「早く、多く、価値ある情報を提供すること」が、これからの成功の秘訣であると番組を終える。

*

だが、私は言う。

次に何が起こるかは、誰も言わぬだけで、分かっている。

それは、オープンアルゴリズムの時代であり、コンテンツメイカーがコンテンツに君臨しする時代の終焉である。

ただ、それが起こればと、現在のマス消費のマージンの高い利益構造が崩れ、薄利なビジネスモデルになるため、誰も黙して語らぬのである。

だが、アサヒスーパードライをあげるまでもなく、小ロット多品種生産の時代にあっても、ヒットは存在するのである。

posted by スポンタ at 11:25| 東京 霧| Comment(0) | TrackBack(1) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月23日

アルゴリズムの時代17:Googleはアルゴリズムの一語で、全数検索の放棄を合理化した。

明後日は、日本新聞労働組合連合のイベントである。

事務局の方から、自己紹介の資料を所望されたので、まとめてみた。
以下は、採録である。

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sponta753.jpg(写真は、娘の753の写真をトリミング)

中村厚一郎 1959年東京生まれ。今村昌平の映画学校を経て、独立系プロダクションに入社。テレビ・ラジオ・舞台・イベントなどで、ドラマ・アニメ・教育・プロモーション・講演・式典などの制作・演出に従事する。 
インターネットとの関わりはパソコン通信から。2000年、インプレスTV「インターネットウォッチプラス」。2004年ブログ開始。2005年、ライブドア・パブリックジャーナリズムに参加。2005年に2ちゃんねるによりバッシング。
JANJAN、オーマイニュース国際版・日本版、ダン・ギルモアのバイオスフィアなど、多くの市民参加型ジャーナリズムに参加するも、ことごとく挫折し、その喧騒の中で、時事通信の湯川鶴章氏と出会い、今日に至る…。

以下は、私のこれまでのブログ言論の要旨。



【インターネットの特徴】

1. ログ(記録)が残ること。
2. 永遠のベータ版(未完成版)であること。
3. 個の微分が可能なこと。(発信者がリアル属性に縛られない)



※ 言論の最小単位の(主体・文体・意志)


【ウェブ2.0の3大要件】

1. オープン性(新規参入障壁の低さ)
2. 透明性(外部から中が、内部から核が、)
3. 外部性(分散志向):拡大が、すべての構成員にとって利益となる。


※ ユーザー基点・オープン指向・ネットワーク外部性(上原仁氏・NTTレゾナント)



【エスタブリッシュコミュニティー(新聞社を含む)の存続条件】

1. 自らのベータ版性を認めること。
2. 対話を継続すること。





【21世紀の課題】
1. 多様なアルゴリズムが並存する意思決定・代表決定システムを構築すること。




・アルゴリズムの概念はGoogleにより知られようになった。Googleはこの一語にて、全数検索しないことを合理化した。クローラーが引っかいて、キャッシュをとったものだけを勘案する。justそれだけなのだ。

・だから、SNSの中には当然踏み込めないし、限定されたネット世界を検索対象にしているに過ぎない。

・グーグルのキャッシュは、ログ性のために作られたのではない。検索時間を短くするために作られたもの。著作権の問題でキャッシュというのではない。

・高校野球のトーナメント型、プロ野球のリーグ戦方式。日本シリーズの勝ち抜き型。そして、会社組織はツリー型である。

・甲子園大会はトーナメント型だが、高野連はヒエラルキー(ツリー型)。その差は大きい。


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資料には、ひとつだけ図を掲載することにした。

【インターネット世界と現実世界】

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ブログが普及し、IT企業関係者が主導権を握る時代は去り、ネットユーザーが主導権を握る時代の到来しようとしている。

だが、私がこの図に描いたCOM(消費者主導メディア)は現在存在しない。結果、ユーザーが覇権を握る時代は妨げられている。

この図において、私が切望するのは、個人発祥タイプのアルゴリズム(Personal Type Algorithm)の確立である。

私は、アルゴリズムというシステムを論じているが、どのようなアルゴリズムを構築しようとも、ユーザー文化が伴わなければ効果は得られない。そのことは、現状のアルゴリズムでも、組織の改善は果せるということでもある。 


(以上、資料より採録)
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「Googleが神である」と専らの評判である。

最近でも、ティム・オライリー氏は、「Googleの勢いを止めるものはない」と、WEB Expoで高説したという

私は、眞鍋嬢のように、「Google八分って知っていますか?」などと、Google批判をするつもりはない。

Googleの繁栄・隆盛は結構なことである。
ただ、そのような特定アルゴリズムの専横は、将来、人類の首を絞めることになる。

賢い人たちの集団であるgoogleならば、自らが単一アルゴリズムという欠点を持っていることを自認しているに違いない。

彼らのことだ。当然のように、Google内で複数のアルゴリズムが並存しながら、検索結果を出すようなシステムを日々グレードアップしているに違いない。 

だが、アルゴリズムが扱っているのは、ボウルド(裸の)データにすぎぬ。
Google検索は、リンクによる関係は想定するが、対話によるケミストリー(耀変的)な言論の変化を想定しない。

Googleが、今後もそのような桎梏を越えることができぬならば、Googleの検索結果は衆愚と決別することはできない。 

そこにGoogleの行く末があるし、私がそれをネットに書き込んでしまった以上、ネットがGoogleと決別する日までのカウントダウンが、すでにはじまっている。

…ともいえるのである。

07sponta
posted by スポンタ at 12:12| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月22日

アルゴリズムの時代16:労働組合は「並存する多様なアルゴリズムのひとつ」である。

5/25日に、日本新聞労働組合連合のシンポジウムに、パネラーとして参加することになっている。

シンポジウムのテーマは、「ネットは新聞に何を突きつけているか」である。

私は、それにつき、ネットは紙を否定しているのではないと指摘してきた。

それは、次である。

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1. 「新聞社が自分達の成果物をベータ版であることを認めること」

2.  「自分達に都合の悪い言論についても、対話することである」

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だが、それらのハードルを越えるために、まずしなければならぬことは、「多様なアルゴリズムを並存させること」だということに、最近気づくことができた。

気づきのキッカケは、佐々木俊尚氏・森健氏のグーグルに関連する分析である。
佐々木氏・森氏には深く感謝したい。

そして、当日提出したい図は、以下。

すでに15回を重ねてきたアルゴリズム論の集大成である。

【インターネットと既存メディアのアルゴリズム】


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考えてみれば、労働組合とは、ヒエラルキルな会社組織のアルゴリズムに並存する、逆ヒエラルキルなアルゴリズムである。

勿論、会社が消滅すれば、労働組合も運命をともにしなければならぬから、逆ヒエラルキルであっても、そこでの意志決定が完全な自由であることはない。
ただ、ここで重要なのは、経営者たちにとって、労働組合の中身がブラックボックスのまま保たれており、その意思決定・代表選択の結果が代表者によって伝えられ、経営者と労働組合の代表者の交渉がなされることである。
同様に、風通しのいい会社組織では、ノミニケーションという自然発生的なアルゴリズムが存在し、そこでの意思決定が、経営や組合のアルゴリズムに発信することもあるだろう。

*

だが、現実はなかなかそのように上手くいかない。

先のエントリーでも紹介したが、北海道の農協でセクハラ事件が起きた。労働組合で起きた事件だから、もうひとつ別のアルゴリズムが存在するはずもない。
そのうえセクハラはノミニケーションの席上で起きたという。

これでは、事件が発生するのも、当然である。



同じことを、公立小学校の運営に関して考えてみよう。

教員たちの組織があり、その頂点に学校長がいる。

それに対して、ひとりの保護者では文句もいえないことを集団して交渉するために、PTAがある。

だが、昨今PTAへの保護者の関心は低く、よほどの大問題がない限り、有効な対話はなされない。結果、保護者会はフラット化し、無力化する。

※ フラット化の弊害が起こる場合は、あまりに集団が大きい場合(日本武道館の会議)。もしくは、特定参加者に権威がある場合(女流小説家のオフ会の場合)である。

そのような状態が何年も続くと、学校長は、PTAを保護者への情報連絡のためのツールと捉えるようになる。

PTAは上位下達のためのツールであり、学校というヒエラルキルなアルゴリズムの中に取り込まれる。
もしくは、CGMよろしく、ヒエラルキルに牛耳られる…。

これでは、健全なる組織運営がなされるはずもない。

これが、私が娘の6年間の学校生活を通じて、保護者会で感じたことの全てである。
学校の上位下達ツールになることなどまっぴらだから、私はPTAの役員などつとめなかった。
そして、時に、こらえきれず発言をしてもみたが、フラットなPTAのコミュニティーの中で、私がクレーマーという異分子として周囲から認識されている雰囲気を感じ、口をつぐんだ。



ヒエラルキルな運営組織に対して、フラットなアルゴリズムは無力である。

ならば、労働組合のような逆ヒエラルキルなアルゴリズムのコミュニケーションシステムが重要であり、その中のコミュニケーションが、匿名性を帯びていて、なおかつ、それをオーソライズし、匿名性を保持しながら、外部と交渉する委員や委員会がある。

これは組織のアルゴリズムの有様として、とても理想的なことである。

勿論、それが経営との粘り強い対話によってのみ、有効に機能することはいうまでもない。



ここが一番重要なことかもしれぬが、経営のアルゴリズムの専横が、必ずしも組織を成功に導くとは限らない。逆に、労働組合のアルゴリズムが専横してもだめ。それはベルリンの壁崩壊が証明している。

多様なアルゴリズムの並存と、その結果・代表の対話によって、あるべき道ができる。

そのようにして、アルゴリズムのバイアスを消していく。それがGoogleだけでなく、日本中の組織・集団において必要なことだと考えている。
posted by スポンタ at 17:09| 東京 雨| Comment(2) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月21日

匿名氏のコメントに答える。「何故、シーサー?」「何故、はてなが嫌いなの?」

いつも拝読しております。


ありがとうございます。

>はてなブックマークが流行し、はてなに登録しなければ、ブログにコメントもできぬし、ブログを書かなければ影響ある発言もできぬというシステム…。 はてなについて、何度もこういうスポンタさんのご見解を読んできたのですが、誤解を招きやすい、というか、これだけでは不正確な表現になっているのが残念です。


おっしゃる通りですね。

私が「はてな」のシステム全体について言及しているのではなく、私の乏しい「はてな」経験から導いて、「はてな」全体をそのように評価している。それは、間違いない。
ただ、それを対話として、成立させてこなかった、私のブログの有様にも、問題があった。
そして、それを、今回のあなたの発言によって、修正することができる。

これは、ほんとうに素晴らしいことです。
ありがとうございます。


> ・はてなに登録しなければ、ブログにコメントもできぬし まず、「はてな」という会社が提供しているブログ「はてなダイアリー」では、一部のダイアリーについては、コメント希望者がはてなにユーザー登録せずともダイアリーにコメントすることは可能です。 たとえば梅田氏のhttp://d.hatena.ne.jp/umedamochio/ も、近藤社長のhttp://d.hatena.ne.jp/jkondo/ も、はてなのユーザーでなくてもコメントを書き込むことが出来ます。


おっしゃる通りですね。
考えてみれば、梅田さんのところもコメントすることはできる。
ただ、そこで一切の対話が成立していない。

だから、あそこにコメントすることは、ストーカーになってしまう。
だから、書き込めない。そんな感じです。

近藤社長とM氏のいきさつには何かを語るほどの事実を知っているわけではありません。

しかし、日本社会を揺るがした社会悪の集団と、自分の関係を明確にすることは、日本社会の構成員として、必要不可欠なことだと思っています。
それは、オウム真理教をアルカイダと言い換えてみれば分かるはずです。

アルカイダの全てが戦闘員・自爆テロ者ではないように、オウム真理教の信者のすべてが犯罪者ではなかった。

私は、M氏関連につき、ネット情報から近藤社長と近しいと判断するレベル…。
ですから、近藤氏が何を思い、何をしているか。ほんとうのところは分からない。

ただ、パソコン通信がオウム真理教によって荒れた過去を体験しているネット者ならば、そのようなムーブメントに加担したかもしれぬ人たちと交流の場を持つことさえ、悪行のひとつと考えられるのではないかとさえ、思っています。

>コメント受付をどうするかはダイアリー開設者(ブログ主)自身が設定で個別に設定することができるのであって、「はてなダイアリー」自体が一括でスポンタさんが書かれているようなこと(「はてなに登録しなければ、ブログにコメントもできぬ」)はありません。 いっぽう、SBMである「はてなブックマーク」に関しては、はてなにユーザー登録したユーザーが使用可能です。でもこれは他のソーシャルブックマークについても同様にユーザー登録した人間が使えるシステムといえるのではないのでしょうか。


仰るとおりですね。

ただ、そのシステムの方向性がどちらに向かっていくのか。

どちらにしても、「はてな」という会社が構築していく方向が、私が夢想している「多様なアルゴリズムの並存」とは、違うものではないか。
と、考えています。

ご存知かどうか分かりませんが、昨年、女流小説家のオフ会の不備を私がブログで書いたところ、バッシングがおきました。

オフ会で、彼女は何度か、「誰か発言したい人は出てきてください」と暗い客席に向かって話しかけた。
しかし、はじめての場所で、手を上げて、自分の意見を言う人は出なかった。

彼女は、「誰も、手を上げなかった」「誰も発言しなかった」と、ブログで、不満を述べていましたが、あのオフ会のアルゴリズムが、フラットな中に有名人だけが存在する。そのようなシステムだった訳です。

つまり、フラットにすることだけではフラットな状況は訪れない。
同様に、スペックがオープンであっても、それがスタンダードになっていなければ、意味はない。

なんだろうか…。

印象批評でしかないが、私は、「はてな」にSNS的な思想を感じている…。これは、MIXIの成功に影響されているのかもしれぬ。

*

フラットであるということは、0+0ではなく、+10-10=0でなければならない。

私のアルゴリズムでいえば、ピラミッド・ヒエラルキー型と逆ピラミッド・ヒエラルキー型が並存しなければ、フラットなコミュニケーションにはならない。または、ツリー型や、リーグ戦型のアルゴリズムも必要でしょう。

「はてな」を敵視する理由もないといえばないのかもしれぬ。
だが、私は、オウム真理教の布教の場となった京都大学とM氏と近藤社長を同根のものであると、どうしても考えてしまう…。

そういう漠然とした直感を、私は信じている。

>だが、ブロガーは一切、「はてな」の運営者と対話することはできぬ。それが日本社会の根本に関わる正義に関することだとしても…。 本当にこう言い切れますか? また、なぜ、こう言い切れるのですか? 私は近藤さんと対話したことがあります。ブログでコメントをしあったり、トラックバックを交わしたり、実際に会ったこともあります。 スポンタさんは近藤さんにアプローチしたことがありますか?


ライブドアPJでバッシングを受けた後に、さまざまな人たちにコンタクトを試みていた時期があります。

そのときに、近藤さんのブログにも何度も行き、コメントをしましたが、コミュニケーションが成立しなかった記憶があります。無名のブロガーの私だから、彼が私と対話をする重要度を感じなかったのでしょう。


私とて、はてなの登録者の一人だからユーザーともいえる。

そして、いま、近藤さんにコミュニケーションを試みたとしても、M氏関連のこともあるでしょうから、一切の対話は成立しないはず。

だって、私と対話することによるメリットを彼が感じるとは思えない…。

きっと、リアルでお会いしても、にこにこしてご挨拶するぐらいでしょう。

私は、ネットで、近藤さん経由で梅田さんの存在を知ったのだと記憶しています。
そして、期待して、「ウェブ進化論」も買って・読んだ。
ウェブ2.0は対話が重要と言説されていた。
なのに、礼儀を持ってして、梅田さんに何度も呼びかけても、一切の対話は成立しなった…。

初対面の相手には礼儀が重要であり、自分がストーカーでないことを印象付けつつ、言論してきたつもりではあったが、一切の対話はない。

そして、それは今も同じである。
私は、今後の梅田氏との対話を期待して、謝罪の用意もあるし、礼儀ある言論しかしていない自負もある。

*

だが、最近では、梅田氏の言説はエスカレートさせている。

ネットの多面性を表現しているかのような「人間論」というタイトルを使い、今度は、現在を捨象した「未来」をタイトルに使う。
このように自説をエスカレートさせながら、インターネットのマイナスの部分を一切語らぬ梅田さんの言論は社会悪でしかない。

*

21世紀のこれからは、ネットに繋がっていることが当然のことになるから、それが個のコアスキルではなくなることは明らかだ。
そんな誰でも考えて分かることを、彼は言説しつづける。

10年前までは、ワードとエクセルとパワーポイントが使えれば就職はできたかもしれぬ。だが、いまそんなことを主張する人などいないのに…。



私は、池田信夫先生のブログのコメント欄にも、次のように書いている。

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社会悪としての梅田氏 (スポンタ) 2007-05-20 15:25:04

梅田氏の言論には、扇動者としての社会悪を感じます。
インターネットの負の部分を知らない人が、ブログを書き始めて、個人情報を掲載してしまったり、炎上を経験する。
彼は、「ウェブ進化論」で、自らをオプティミストと称して開き直ったようですが、だからといって、インターネットの負の部分を捨象して、ばら色の未来が現実であるかのように言説することが許されるものではないのではないか…。
孤独な呻きがネットで反発され、事件に発展することも珍しくないのですから…。



>それ以前からTCP/IPもHTMLも、すべてオープンだったのだ。(池田先生)

まさに、その通りですね。
日本では、リナックスのメンテや教育に、有料でオラクルなどが乗り出すとか。
リナックスといえども、すべてが無料という訳ではない。
そして、トーマス・フリードマンの「フラット化する世界」によれば、リナックスは、IBMの協力(資金・組織)によって成立したという。
すべてが無料(フリー)で成立しているのではないけれど、オープンか、クローズかといえば、やはりオープンなのだと思う。
自説開陳失礼しました。
そして、ありがとうございました。

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インターネットで自らのマッドネスを露出したり、犯行予告をする人は、彼らの潜在意識に、「私を止めて欲しい」という意志があるはず。

ならば、そのようなインターネットの中の言論にいかに対応するかが、すべてのネット者がやるべきことだと思っている。

長崎の少女にしても、バスジャックの少年にしても、集団自殺の志願者にしても、水谷先生のような世直し先生が沢山ネット上にいれば、なんとかすることができた。なんとかできなくても、そういう努力をすることが社会の健全性。どんな人にも、その人の良性を信じて、対話を諦めない。

そういう努力があってこそ、あるべきインターネットの未来がある。

そして、それが今ないのなら、発言力のあるエスタブリッシュはコメントすべき責任を負っている。

インターネットの危険性を語らずに、ばら色の部分だけを論じれば、耐性を持たない若者たちが、不用意にネットで発言することによって傷つく。引きこもりや逆切れを起こしても当然ではないか…。

勿論、このような明確な反対意見は、対話を促さない。だから、もう梅田さんのブログにはコメントは書かない。
そして、もし、彼と出会う機会があったとしても、私は対話を続けるために、自説の10%も明かさぬだろう…。



>また、前のブログ http://plaza.rakuten.co.jp/sponta/diary/200705190001/#comment にある、スポンタさんのコメント >本当のことをいえば、彼が経済的なことをいえば、一番M氏を擁護していた筈だから…。 これはどういう根拠から来ることですか? >直接には、「M氏」に本を書かせた出版社にこそ経済的な責任があるのではないですか?


近藤さんと一緒に技術開発などをやっていたという風に、私は認識しています。
もし、事実関係がそうでないなら、謝罪訂正することはやぶさかではありません。

ただ、自分が、カルト教団の信者でないことを証明することは、すべての発言者のみならず、すべての日本というコミュニティーの構成員がが行なうべきことだと私は思っています。

それは、近藤社長のようなメディアの運営に大きな影響を及ぼす立場なら、当然のことです。

*

ご存知かどうかは分かりませんが、GripBlogの泉さんは、それをせず、M氏擁護の立場を取った。これでは、日本のメディアとしての資格はない…。

表現の自由が誰にもあるとしても、地下鉄サリン事件の被害者の遺族たちの前で、彼らに言論の自由があるとは思えない。
遺族たちの前で彼らに許される言論は、謝罪と懺悔だけである。
そして、遺族がネットで閲覧する可能性を否定できぬならば、その言論は制限されて当然ではないか。

「自分の夫を殺した集団の人間が、事件以外の何物かを語ること」を被害者の遺族が喜ぶはずもない…。

カルト宗教を内包したメディアがネットに誕生することは、あってはならぬ」と、私は、それをネット友人のトリル氏から教えられた。

*

では、「はてな」はどうか…。

私の思い込みが、過去に限定されるのか、現在もそうなのかは分からない。
ただ、当時の彼の言説が誤解を呼ぶようなものであったことは、否定できないと思っています。

オウム擁護4人組の佐々木氏、歌田氏、R30氏、泉氏とは別格ではあるものの、同じ文脈に近藤社長がいると感じています。

>それと、シーサーブログはスパムブログが多いなどのことから、他ブログ利用に於いて一括でシーサーブログからのトラックバックを受付禁止にしているブログが結構多くなっているようです。老婆心から、ご参考までに。


ま、そういうこともあるでしょうね。
(^^;)

ただ、シーサーの運営者たちは、ブロガーに君臨しようと思っていない。
ブログでできることは、すべてをできるようにしようという強い意志をが感じられる。

その気配を感じる限り、ここでブログをやってみようと思う。

今回の引越しも、決定打として、シーサーを選んだのではない。

うさんくささも含めて、シーサーが一番ネット的であると感じて、移ったに過ぎない。

一方の「はてな」の胡散臭さは、もうひとつ別にあり、それは、どこか選民意識につながっている。そのクスグリ感がマイノリティーである私としては、鼻につく…。

確かにあなたが指摘するような思い込みかもしれぬ。
だが、それを払拭できぬ私がいて、一切の対話を及ぼさない梅田氏がいて、それに近藤氏も連なっている。

*

勿論、コメントをいただいた匿名氏が、近藤さんとの対話の芽をつくっていただければ、対話もする。

事実、そのようにしてやってきた。
だが、その実りともいえる対話が成立したのは、時事通信社の湯川氏のみである。

*

多くのエスタブリッシュに名指しで無視されてきた私としては、すでに期待をせぬことにしている。

最近では、ウェブ2.0の提唱者のティム・オライリーに対話を挑んだが、何も始まらなかった。

このうえ、近藤氏に何を期待できるとでもいうのだろうか…。

*

たとえば、対話が成立して、私が近藤氏に語りかけるとすれば、その第一は、スパムサイトの撲滅だろう。

スパムサイトに対して、「ユーザーが評価をし、そのトップランクのものは、一定の処置をする」など…。そんなことはできぬものか。
と。

しかし、そのような対策を行なえば、登録減に直結する。それがビジネスに影響を与えるに違いない。

スパムメイルがトラフィックを危うくするとしても、スパムメイルがなくなるとトラフィックは減り、トラフィック業者のビジネスは危うくなる。
そういう構造を越えることができるはずもない…。

そして、いまの私の言論の文脈からいえば、私という個の意見を投げかけるよりも、無名の個の意見をインテグレートさせるアルゴリズムの並存を許容できるか…。という問いかけをするに違いない。

*



私はあくまでも一人のネット者とてネット上に存在し、一切のエバンジェリックな立場とは隔絶する。

私はすべてのエバンジェリックな立場を理解する。そして、理解した上で、妥協点や止揚した結論を見出したい。

それがなかなかできぬのが残念である。



ということで、匿名さま、コメントありがとうございました。

あなたのコメントによって、痛感されられたのは、私の「はてな」評は、印象批評に過ぎぬということ。

形式批評をするような緻密さを持ち合わせていないのが、私の弱点でもあるので、反省しきりです。

*

ただ、印象批評は印象批評として受け取ってもらえればいいし、それをもって、私の文脈をどのようにうけとるかも自由なのです。

*

そして、蛇足気味にいえば、インターネットはスペックを競うのではない。

デファクトオブスタンダードを競う…。

などと、減らず口を言わせて貰って、このエントリーを終えたいと思います。

匿名者様、コメントありがとうございました。
あなたのコメントによって、溜飲を下げられた閲覧者もいるだろうし、私の言論の理解が深まった閲覧者もいることでしょう。

ほんとうにありがとうございました

07sponta

追記:

いま、近藤社長でぐぐっていたら、彼の著作の紹介ページから、M氏のブログへのリンクがいまだに生きていた。
M氏のブログでは、彼が自殺予告をしており、それに関連して、トリル氏が上京したことは、関連者ならご存知のはず。
近藤氏とM氏の距離はいまだに近しいことが伺える…。
posted by スポンタ at 21:26| 東京 晴れ| Comment(2) | TrackBack(1) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アルゴリズムの時代15:消費者主導メディアのアルゴリズムたち。

※ このエントリーでの「はてな」に関する記述は、匿名氏により、私の印象批評にすぎないこと指摘されています。
したがって、私は、「はてな」の利用者の利用状況には、そういう傾向があると指摘していると、読み替えていただけると嬉しい。
私の「はてな」への嫌悪感は、近藤社長とオウム真理教M氏との関係に起因することを明確にしておく。驚いたことに、近藤社長の著作のページからM氏のサイトへのリンクはいまも張られたままである…。
ここにおいても、近藤氏はM氏との関係を否定しない。



argo_siminR.gif

ウェブ2.0の旗頭は、CGM:Consumer Generated Mediaだというのが専らだという。

だが、無名の徒は、CGMの運営者たちに操られているに過ぎぬ。

たとえば、「はてな」がある。

はてなブックマークが流行し、はてなに登録しなければ、ブログにコメントもできぬし、ブログを書かなければ影響ある発言もできぬというシステム…。

だが、私は「はてな」に登録しようとは思わない。
何故かといえば、「はてな」という会社のトップがオウム真理教のM氏を擁護しているからだ。
インターネットの健全性を思うとき、オウムに限らずカルト宗教の問題は避けて通ることはできない。

だが、ブロガーは一切、「はてな」の運営者と対話することはできぬ。それが日本社会の根本に関わる正義に関することだとしても…。

CGMの運営者は、ユーザーと対話することはできぬ。
それがCGMであるとするならば、それはCGMが過渡的なメディアであり、Diggのように何かが起きたら、終末を迎えるべき宿命を負っている。




ならば、どうするか。

多様なアルゴリズムを並存されることによって、多数な合意を形成し、それらを参照しながら、メディアを運営していく。

それが、私の提出するCOM; Consumer Organized Mediaである。

【COMの図】

argo_COM.gif



2007年において提出する私のコミュニケーションの形の特徴は、「多様性の並存」である。

アメリカでは、「フラット化する世界」などと、軽薄に世の中を見る、トーマス・フリードマン氏がいる。

彼は、フラット化する世界を善として捉えているようだ。

【フラット型コミュニティーの欠点】

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彼は、フラット化によって起こる「ポピュリズム(内容を保証しないブランディング)」「クレーマー・マーケッティング(微量の不満分子によって世の中が動いていくこと)」「個の孤立(ローカルコミュニケーションの疎外)」について、一切言及しない。


*

何故、アメリカの銃社会がなくならないかといえば、全米最大の圧力団体・全米ライフル協会の存在であり、ロビイスト活動である。だが、そのような集団も、全米の人口を分母とすれば、少数派に過ぎぬはず。割合からいえば、日本の郵政族の数と大差ないのではないか…。
そういう自らの脆弱さを知っているから、彼らは必死にロビイスト活動を行い、名優・チャールトン・ヘストンを起用したポピュリズムによる言論誘導を試みる。



トーマス・フリードマン氏は、「フラット化によって起こるアメリカ経済の危機」についてばかり論じている。

それは、「世界経済の中で覇権を握り続けてきた彼らの勝者の論理を、フラットの世界にも適応させよう」とするものでしかない。

フラット化は理想ではないし、フラットした世界は、勝者にとっても敗者にとっても新たな障害をもたらす。


そのことを冷静に分析しなければならぬ…。

それに気づかねばならぬのは、私たち日本人よりも、アメリカ人ではないか…。

そう思っている。

このエントリーを、英語にすることにしよう。

07sponta

追記:

たとえば、北海道の農協で強権者によるセクハラ問題がおきた。
キス写真がマスコミに露出している…。

今朝の報道では、被害者が告訴取り下げ、和解が成立したという。

*

和解は、限定された地域社会で、ヒエラルキルな情報システムしかなければ、仕方のないことである。

農協のヒエラルキルなシステムは、業務効率性に合理性があり、温存される。

結果、それに対抗するものは、司法制度というクレーマー・マーケッティング・システムしかない。

これでは、クレーマーが出現するほどの悪行がなされるまで、軽微な悪行は修正されることがない。

このような地域の状況を変えていくのが、多様なアルゴリズムの並存するコミュニティーである。

argo_COM.gif

ピラミッドなヒエラルキルな農協の組織構造に、労働組合の逆ピラミッドなヒエラルキルが存在する。
そして、トーナメントなアルゴリズム。フラットなアルゴリズム。
逆ヒエラルキルなアルゴリズム。それらが、並存することが、この事案を解決する唯一の手段である。


そして、それを成立させる重要な条件は、リアルな属性に縛られないこと。

つまり、匿名である…。


posted by スポンタ at 09:08| 東京 晴れ| Comment(2) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月20日

スポンタ映像

Cnn_Prix.jpg

とりあえずの私の映像。

影が私の娘。

この写真は、昨年、日経Kids+(2006年8月号)で、キャノン大賞を得ている。

ちょっと自慢してしまったが、カメラマンとして認められたのは私ではない。(^^;)



商品はキヤノンのカメラだった。

キヤノンのカメラは素晴らしい。

と、今後は、アフィリエイトなどにも、挑戦してみるつもりである。

07sponta
posted by スポンタ at 10:10| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アルゴリズムの時代14:メディアのアルゴリズムを総覧する。

アルゴリズムの時代として、書き続けている。シリーズはすでに14を数えている。
最初から読みたい場合は、スポンタ通信2.0をご覧いただきたい。

アルゴリズムを書き連ねている理由は、リアルな組織が、単一なアルゴリズムに強いられることで、バイアスのかかった意思決定や代表選出しかできぬためである。

世の中のすべての意思決定は、アルゴリズムの形に少なからず影響を受けている。


そのことを指摘するのが、このシリーズである。

そして、今。
インターネットの時代。

ネット者は、リアル属性に縛られることはないから、複数のアルゴリズムの中の個でいることができる。

これにより、ネットは複数のアルゴリズムによる結果を並存できる。
アルゴリズムの違いによって出てきたいくつかの結果を参照することで、より有効な結論を導き出すことができる。


というのが、本論の主旨である。



さて、ブログも変わったことだし、再度まとめておくことにする。

【既存メディア・オーマイニュース韓国版・市民参加型ジャーナリズム(理想型)】


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*

既存メディアは株式会社であり、それがヒエラルキー型の意思決定方式であることは依存のないことだろう。

韓国で大統領選にも影響を与えたというオーマイニュース。しかし、政治的なニュースはすべて主宰者やプロ記者のものだという。これでは本物の市民記者メディアとはいえない。

一方の市民参加型ジャーナリズムは、フラット型。市民記者は自由であるといえば聞こえはいいが、自己責任を強いられるとともに、市民記者たちに議論はありか、対話もない。そのようなものが、ひとつのメディアといえるのだろうか…。



【既存メディアがつくったインターネットサイト・メディアジャム】


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*

既存メディアがインターネットのサイトを作っている。
代表的なものが、産経新聞がつくった「イザ」であり、毎日新聞がつくった「まいまい倶楽部」だろう。

インターネットにつくられた掲示板は、新聞の読者投稿欄と同じものである。という認識があるが、それは間違っている。

読者投稿欄に掲載される記事は、編集部によって選択されたものである。
だが、インターネット上の掲示板には編集部が関与することはない。したがって、新聞記事や新聞社への批判・反論の投稿も、何ら憚られることなく露出してしまう。

非があるのが新聞社や記事だからなのか。それとも、反論をしても、火に油をそそる結果になるからなのかは分からないが、多くの場合、それらの反論に新聞社や記者たちが答えることはない。

結果、対話は成立せず、反論者の言論が野ざらしと言った状況で、放置されることになる。

言論の元になる事実を確認することはなかなかできぬので、何が正しくて、誰が嘘をついているのかは分からない。

だが、対話をせぬ者の分の悪さを私は、感じざるをえない。

*

そして、先週スタートしたのが神奈川新聞がはじめたメディアジャムである。

対話する文化をいかにつくっていくか。

私には、ニュースにインデックスをつくるところまでしか、主宰者たちは予想していない気がする。


ならば、Diggで起こったような、メディアの存続を脅かすようなことは早晩起こる。
発言のための登録制度にいかなる工夫を凝らしていようとも、その時期を遅らせる効果しか果さぬに違いない。

07sponta
posted by スポンタ at 08:32| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月19日

YouTubeをアップしてみる。

さて、新しい皮袋には新しい酒を。

ということで、YouTubeの映像をアップしてみる。



作品は、排水処理施設からメタンガスを取り出して、エネルギーの有効活用に生かすというもの。



正真正銘、これが私の本業なんです。

価格は、50万円〜100万円。業界の相場からいえば、ほとんど半額の予算。

作品で使用する2次元CG、3次元CGは、私自ら作ったもの。

特に、後半で使っている歌舞伎役者の3次元CGも、なんとか予算内成立させました。

ご連絡をいただければ、営業にお伺いたしますので、よろしくお願いいたします。

連絡先は、sponta@mail.goo.ne.jpです。




などと、商人ブロガーとして、新たなスタートを切ってみる。

閲覧者にとって、私がどんな人間か分かることは、悪いことじゃない。
…そんな感じ。

情報が多くの人に触れることは悪いことじゃない。
BtoCの私のお客さんも理解してくれるに違いない。

07sponta
posted by スポンタ at 19:42| 東京 雨| Comment(2) | TrackBack(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シーサーブログで本稼動します。

私がホームページをはじめたのは、1998年頃だと思う。

そして、ブログを始めたのが、2004年。

その後、いくつかのブログをやってきた。

2004年からが、スポンタ通信

これは、NTTデータが運営するドブログだが、メンテナンスで長期停止などがあり、不満がつのって引っ越した先が、楽天ブログのスポンタ通信2.0である。

ブログの始まりと終わりがない感じに満足できず、シリーズとして完結させたのが、「幻想の市民参加型ジャーナリズム」というブログ。ここでは、ライブドアPJの出来事を詳らかにしている。

その他、挫折篇として、スポンタ通信2.1がある。
これは、新聞社がブログを展開することで期待した。だが、その期待はまんまと裏切られた。興味がある方は、そこを覗いて見るといい。
私と運営者とのやりとりを確認できる。

そして、英語版をつくってみた。
diggで起きているメディアの危機に対して、アドバイスできると思ったので、言語の壁を乗り越えて発言してみた。
同様に、「Googleの勢いを誰も止めることはできぬ」と主張するティム・オライリー氏にも、コメントを送るとともに、その要旨を採録しておいた。

グーグルの多言語対応は、すすむが、それが理解・合意を生むのかどうかはわからぬ。

私は、今後も、図説を心がけて行きたい。

07sponta
タグ:スポンタ
posted by スポンタ at 19:04| 東京 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月10日

アルゴリズムの時代_01:はじめに…。


トーマス・フリードマンは、「フラット化する世界」という著作で、南北問題は解消し、ヒエラルキーな世界は解消し、アメリカの地盤沈下を危惧している。

私は、それがアメリカ人の圧倒的な優越感による言論に過ぎず、アメリカ人にとっては有益な言論かもしれぬが、数十年の経済的優越しか持たぬ日本人が、この本を読んでしたり顔をすることは軽薄であると感じた。

フリードマンは、さまざまなフェイズがフラットになると指摘する。
だが、そのフェイズを見つめる視点はアメリカにあるということに気づかなければならない。

ITをめぐる諸相はフラットになる。だが、言論のフェイズはアメリカ独裁(英語独裁)で変わらぬ。

そのような安心感の上で、この著作が綴られていることを、忘れてはならぬ。



フラット化する世界にアメリカは対応しながら、21世紀のリーダーシップをとっていく。
それが、フリードマンの言論であり、それに、アメリカという社会がベストセラーにして応えたというのは、当然のことである。

では、日本はどうすればいいのか。
そもそも、フラットな側にいた日本が、フラット化に対応するなどということは不毛である。

ならば…。

*

私は、「アルゴリズムの時代」というテーマを提出したい。

世界の21世紀は、アルゴリズムの時代である。

アルゴリズムの時代が到来することにより、グローバリズムとアメリカニズムは分離され、衆愚からも解放される。

そこにおいて、ヒエラルキーという妄想も、フラットという幻想も世の中から消え去るのである。

*

アルゴリズムの時代の到来に抵抗するすべての人は、独裁者であり、民主主義の敵である。

アルゴリズムの時代こそが、人類をあるべき方向に促すのだ。



これから数回、アルゴリズムについて語っていくことにする。

反論・疑問・問題点を得た人はぜひともコメントを試みて欲しい。

有効な議論から、新しい言論が生じることを願っている。




アルゴリズムとは、議決方式・代表の決定方法・選択の方法・抽出の方法・ランキングの決め方・組み合わせである。





ツリー状のヒエラルキーシステムや全員参加の採決が無批判に肯定される時代は、インターネットの普及により終焉する。

ツリー状のヒエラルキーシステムは、元来「ねずみ講」的なものであり、新規参入者を拒む。ならば、世の中にフリーターが多発するのは当然のことである。

相互コミュニケーションが欠乏したコミュニティーに於いて、全員参加の採決が衆愚に陥るのは当然である。情報を共有し、それぞれが意見を十分に交わせば衆愚な結果にはならない。

インターネットの登場により、ヒエラルキーの上部と下部の情報格差は合理性を持たない。
そして、365日24時間対話ができるインターネットがあるなら、全員参加の採決も衆愚にはならない。

もし、ヒエラルキーが害悪をもたらすならば、ネットの情報共有機能を理解せぬ者が存在するために、情報格差があること。
もし、衆愚があるなら、ネットの対話機能を理解せぬ者が存在するのである。

07sponta



追記:

グーグルの終焉・佐々木氏言論の危うさを論じていても、建設的ではない。

これからは、「アルゴリズムの時代」という提案をすることで、21世紀のあるべき日本とインターネットについて論じていくことにしよう。
posted by スポンタ at 20:37| 東京 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アルゴリズムの時代00:ネット時代に衆愚はない。そして、衆愚を語る者たちの陰謀。


佐々木俊尚氏の「次世代ウェブ・グークルの次のモデル」(光文社新書)を読んでいる。

Amazon.co.jpアソシエイト

私は無名氏に過ぎぬが、彼との少なからぬ因縁を感じている。

それは、GripBlogに関わる「ことのは」のM氏関連の擁護論陣を彼が張ったこと。そして、オーマイニュース日本版に関して、彼が、イデオロギッシュな視点でカイゼンを求めたことについてである。

*

前者については、日本において言論の自由は尊重されるべきだけれど、無制限にそれが尊重されるのではない。殺人や自殺を肯定する言論は制限される。ならば、それに連なる言論は制限されてしかるべき。
同様に、殺人集団に加わっていた人間は、同様な過ちを繰り返さないという意志を見せることによってのみ、言論が許されるべきであって、殺人集団に加わり、その言論部門として活動しながらも、一切の自己批判をしないM氏に言論の自由はない。というのが、私の立場・考えである。

佐々木氏は、GripBlog氏、歌田明弘氏(週刊アスキーコラムニスト)、R-30氏とともに、M氏の擁護論陣を張った。

私は、パソコン通信時代を思い出し、カルト宗教の蔓延がネットの自由な言論をいかに妨げるかということを痛感してきたので、トリル氏などの指摘に背中を押されながら、彼らの言説の危うさをネット上で批判してきた。

*

後者については言うまでもない。
ベルリンの壁崩壊後、右左という視点は不毛化している。

ネット上のメディアが存続できる唯一の視点は、時事通信社の湯川氏が唱えているように、「対話を継続すること」である。

運営の透明性・編集の透明性・市民記者との対話…。

それらの問題を私はネット上で提示したが、一切の対話は生まれなかった。


フランスの社会思想家のジャック・エリュールは、「対話が終わったときに、プロバガンダが始まる」と言ったという。

*

私は思う。

対話をしないメディアは、ピンボンダッシュをしているに過ぎず、報道機関ではなく、プロパガンダメディアなのだ。


「みんなが市民記者」をスローガンではじまったオーマイニュース日本版も、そのひとつであることは指摘するまでもないし、私の指摘に一切答えない佐々木氏を考えれば、彼の言論もオーマイニュースが仕組んだ言論誘導のひとつでしかない。



さて、話を戻そう。

佐々木氏の著作「次世代ウェブ・グークルの次のモデル」の174ページには次のようにある。

以下引用。

たとえばアルファブロガーとして知られる松永英明は、「備忘録ことのはインフォーマル」という自身のブログでこう書いている。「Web2.0」の背景にある考え方。」という2006年9月28日のエントリーだ。

<集合知は、多数決の論理であり、いわゆる民主主義的、あるいは大衆礼賛であるが、衆愚に陥る可能性もあり、また、真実は多数決では決まらないことを忘れる危険を伴う。(天動説の時代には天動説が多数意見となる)。したがって、真実かどうかはどうでもよく、ただ多数の趣味嗜好がわかれば十分なもの(たとえば、流行)についてはWeb2.0は有益であり、逆に真実を探るにはWeb2.0は不十分である。>


M氏の言論を受けて、佐々木氏はこのように続ける。

つまりマーケティングや意思決定など、何らかの社会の傾向を調べたり、あるいは多数決による世論などを定めるのには、集合知は有効だ。
しかし、「真実」を探求する方法としては、集合知は誤ってしまう可能性があるのである。


島田裕巳氏が、中沢新一氏批判の本を上梓されたという。その理由は、中沢氏の言論が、いまだにオウム真理教の信者たちの還俗を阻んでいるからだという。

私は、一貫して、「M氏には地下鉄サリン事件でご主人を亡くした高橋シズエさんの前に、言論の自由はない」と主張している。

そして、それが衆愚に関するものであり、それが、オウムによって殺された30余人の方々をメタファーするのならば、その過ちを指摘しなければならぬ。

中沢氏と佐々木氏は同じことをしている…。




さて、M氏と佐々木氏の言論。

読者の方々は納得されているだろうか。

もし、彼らの言論に納得されているならば、小学校時代の学級会の経験を忘れているに違いない。

*

議案が提出され、解決策の選択肢が提出されたら、即、多数決をとるなどということはなかったはずだ。

たとえば、「クラスのいじめられっ子の○△君を学級委員にしよう」と、誰かが提案したら、即、採決などということがあっただろうか…。

普通は、そこで議論・対話がはじまる。

誠実な先生は、「あなたたちは、本当にそれでいいの? ちゃんと話し合いなさい」と叱ったはずである。

小学校の学級会は、小学生たちの知性によって営まれており、衆愚とは無縁である。


なんて、こどもの日にふさわしい言論っす。
(^^;)

*

私があえていうまでもなく、

インターネットの最大の利点はインタラクティブ・対話である。

(情報共有・ログが残ることも、対話の中の一つ。過去形の対話でしかない)

*

なのに、エスタブリッシュは既得権益が損なわれるとして、対話に応じない。

そして、被エスタブリッシュは傷つくことになれていないから、対話を始めない。




それは、「次の時代は、智民主義の時代である」と唱える公文俊平氏の言論も同様である。

そもそも集合知が衆愚に陥るという考え方が、選民主義的なのである。

そのようなネット以前の価値観を、ネットの21世紀に適用することに合理性はない。

*

公文氏は、知ではなく智と記述することにより、Knowlege, Intelligenceではなく、Wisdomというニュアンスを表現したかったに違いない。

だが、いま気づくことは、


集合知というものが、Knowledge, Wisdom, Intelligenceなどとうい静的なイメージではないこと。

集合知というものは、動的なものであって、動的であるがゆえに、万能な知性を保持する。

動的とは、知性と知性がコミュニケートすること。つまり対話である。



多くの宗教で、固定的な知であるはずの経典が、何故、説話体になっているのか。
※特に、仏教・儒教では、弟子との対話体で宗主の思想が語られる。

それらは、すべからく叡智というものが、固定的なものではなく、知性と知性が対話(コミュニケーション)することによって成立することを物語っているといえるだろう。

*

私には、「集合知が衆愚に陥る」という考え方に違和感があった。

私はダウン症の青年とバンド活動をしていたが、彼の参加によってバンドが衆愚に陥るなどと考えたことはなかった。

逆に、彼から音楽の意味、ステージの意味を教えてもらった。勿論、非ロゴス的なコミュニケーションにおいてではあるが…。

*

そのような経験から紡ぎ出される思考の過程でたどり着いたのは、ロゴス(言語的)的な集合知は棘棘しいものであり、非ロゴス的な集合知は違うものである。
と、考えた。

だが昨日、ある気づきを得た。

「ユングの神秘主義を出す必要は無い」と、皮肉にも神秘主義者であるはずのM氏の言論に触れて気づくことができた。

そして、インターネットにおける言論・情報の理想を次のようにまとめる。


すべての情報を共有し、ステークホルダー(自己の利害)を乗り越え、ルサンチマン(怨念)を乗り越え、対話・議論を尽くした上で、採決をしなければならぬ。

365日24時間の対話が可能なインターネットでは、その実現が可能である。

365日24時間の対話を施行せずして、採決をとるならば、その採決の結果が真実とかけ離れるのは当然である。


グーグルのロボット検索は一切の対話を望まない。

検索に対話が付随しないから、「日本人がブードルと羊の見分けがつかない」などというデマが、諸外国に伝わることになる。

テレビという極めて絶大なオーソライズパワーを持つメディアが誤診したら、その誤診が広がってしまう。
グーグルは、テレビ局のオーソライズパワーを無批判に肯定している。

私は、川上麻衣子の出演した小堺一樹のサイコロ鼎談番組をオンエアで見ていた。

私は、「ペットが通販で宅急便でやってくる」という発言に疑問を思った。このエピソードは、ネイルサロンの楽しいジョークのひとつであり、真実性を持って流通すべき情報ではなかった。
もちろん、諸外国のメディアたちも、楽しいジョークとして楽しんでいるに過ぎないのだが…。



衆愚などというが、異種・多様な人たちが集まっての対話がどうなるか、考えてみればいい。

たとえば、政治家・役人・裁判官・弁護士・新聞記者・魚屋・肉屋・パン屋・主婦・こども・障害者のコミュニティーがあったとする。

そこで、365日24時間の議論・対話がなされる。

たとえば汚職の議題が出たとする。

まずは、ステークホルダーから、政治家と役人に対して、新聞記者と弁護士が糾弾する。それを裁判官が裁定しようとする。
だが、そのような人たちだけで、過半数を得ることはできぬ。
そこで、政治や役所のしくみが分からぬ魚屋肉屋パン屋主婦こども障害者が言論に加わらなければならぬ。
そこで、即、採決がとられれば衆愚に堕ちる。

だが、ネットではそういう必要はない。
365日24時間対話・議論を続ける。…まるで、十二人の怒れる男のように。

時を重ねても、魚屋・肉屋・パン屋・主婦・こども・障害者たちが、その能力の限界により、社会学的な真理を理解できぬことはありうる。だが、発言者が、正の言論を司っているのか、偽の言論を操っているのかは、言論の内容を理解していなくとも把握できるはず。障害者たちの直感的人間観察力の鋭さはいうまでもない。

そして、政治家も役人も弁護士も新聞記者も対話・コミュニケーションの中で、お互いのステークホルダー(利害関係)を越え、ルサンチマン(過去の怨念)を越えていくに違いない。


*

もし、読者が、そのようなイメージができぬならば、それは、ステークホルダーやルサンチマンを越えていない、まだまだ時間が足らぬ時期を想定しているに過ぎない…。



アルゴリズムとは何か。

それは、対話を避けて、演算ですませることである。

そのような功利主義に騙されてはいけない。font>


そこにこそ、グーグルが、神として君臨できぬ脆弱さがある。

グーグルは、人知でも、集合知でもない。

単なる恣意的なアルゴリズムの集合体である。

07sponta


追記:

ネット時代に衆愚はない。

もし、衆愚に感じられるとすれば、それは、対話システムの不備を表現している。
posted by スポンタ at 19:38| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする